【レビュー】球体の球体

エンタメ

「親ガチャ」に代表される「〇〇ガチャ」。自分の意志で決めることができないもの(主に人間関係)に対して用いられるようになった。

本来はワクワクする遊びであった「ガチャガチャ」は、いつしか「人生のくじ引き」「人生を左右する運命の分かれ道」という意味合いを帯びるようになった。そこには、さまざまな葛藤や生きづらさからくる「絶望」のような、「自嘲」のような「諦観」のような、乾いた、冷たい、ざらついた感覚がある。

舞台『球体の球体』では、今この世界に蔓延する「〇〇ガチャ」をテーマにしている。

あらすじ

物語の舞台は、2059年。架空の国「央桜」の美術館「央桜美術館」。その「央桜」の大統領であり、美術館を代表する作品「sphere of sphere」のアーティストである本島幸司(相島一之)が、レセプションの参加者(観客)に語り出す。日本人である本島が、なぜ独裁国家である「央桜」の大統領になったのか…。

35年前の2024年。本島(新原泰佑)は、キュレーターの岡上圭一(前原瑞樹)と「央桜美術館」での作品展示のためにこの国を訪れた。「央桜」の大統領・日野グレイ二(小栗基裕)に招待された本島だが、そこで日野からある提案をされる。

それは、大統領を譲るというもの。その真相は…

感想

本作のテーマ ※ネタバレあり

グッズのガチャガチャ

序盤は、本島と岡上の軽妙なやり取りが展開する。最新作のコンセプトに合わせて「パイプカット(男性が受ける避妊手術)」を行った2人。そのクリニックの青山店と溝の口店の違いという、東京に住む人なら何となく共通して持つ地域の特色を織り交ぜて、クスッと笑えるネタがちりばめられている。しかしこの前半の小ネタが、後半になって怒濤のように伏線回収されていく。

そんな中で、小栗演じる日野が登場し物語が展開する。大統領家に生まれながら、国のトップになる器量はまるでなく、オンラインゲーム「フォートナイト」だけをやっていたいと望む日野は、自力で交渉成立させることができるなら大統領の座を譲渡できるという先代(父親)との約束で、その大統領の座を日野に押し付けようとしていたのだ。

アーティストであり、自身の出生に対してコンプレックスを持つ本島は、その提案を最終的には受け入れる。そしてまた、キュレーターの岡上も、弟が自殺してしまった過去をもつ。それぞれ「生/死」「人生」「家庭」に対して、何かしらの不幸や生きづらさを抱える3人。

本島の作品「sphere of sphere」は、「子孫(自らの遺伝子)を残す」ことができなかった、あるいは放棄した人たちの精子と卵子をガチャガチャのカプセルに入れ、それぞれのマシンから1つずつ回し、それで受精卵を作り、新しい命を誕生させることができるというコンセプトの作品だった。(2024年当時は、保管場所を書いた紙を入れていたが、35年後の世界ではカプセル内に凍結した精子と卵子を入れることができる。)

そうして大統領となった本島は、独裁国家の改革に乗り出す。また「sphere of sphere」によって「淘汰されたかもしれない命」を「育てたいと思う人」が育てられる仕組みを作る。

3人のガチャ(生きづらさ)

自らの出自、身分、経済格差、家庭環境、国家体制…「自分の人生」のはずなのに、その「始まり」は自分では選べない。「始まり」がその後の「人生」を蝕(むしば)む。それは厳粛で、残酷なほどに。

本島、日野、岡上の3人の「生きづらさ」はそれぞれ事情が異なる。
本島は、托卵児であることが分かり、それがきっかけで父親との関係が壊れた。生みの親と育ての親、自身のルーツとなる基盤が崩れたことによって「家族」や「子孫を残す」ことへの不信感・抵抗感が芽生える。

日野は、独裁国家の大統領の一族として生まれ、強権であった先代(父親)が、大統領になれる見込みのない兄弟を次々に殺していく状況の中で育った。能力がないにもかかわらず、その「血」でもって家業を継ぐ世襲制のしがらみに雁字搦めとなる。悲しいのは、グレイニは「大統領になる器ではない」とされているが、決して「愚か」ではないのだ。パイプカットマニアで、優柔不断で、ゲームしか関心がないなど、”ダメ(ちょっとおかしな)な奴”っぽい要素も多いが、独裁国家(恐怖・脅迫による支配)の異常さ」を理解している。しかし、それを理解していても、岡上に対してとっさに「(指示に従わないと)殺すよ!」と、先代(父親)の振る舞いをしてしまう。「血」というか「育った環境」が、無意識レベルで刷り込まれ、自身の思考・行動に影響を与えていることの怖さがある。

岡上は、弟とバスケ部に入り、一生懸命打ち込むも、身長が低いと気にする弟は、ある時に自殺を図る。遺書には「自分は遺伝子を残したいけど、こんな奴の遺伝子を欲しがる人はいない」ということが書いてあった。容姿のコンプレックスとして取り上げるのが「身長」というのが絶妙だ。コンプレックスに感じるものの中でも、特に遺伝による要素が大きく、美容や整形、筋トレなど、その後の努力や施術で改善させることができる余地がない。

人生の中で、「もっと〇〇な家に生まれたかった」と思うことは誰しもあるだろう。それが他愛のない「ない物ねだり」の場合もあれば、「反抗期」といった通過儀礼の場合もあるし、切実な「渇望」の場合もある。

「〇〇ガチャ」という言葉はあまり使いたくない言葉ではあるが、つくづく人生を、出生の巡り合わせを「ガチャガチャ」にたとえた秀逸を感じる。それは当たり外れがあるということもそうだが、そんな自分では選ぶことのできないランダムで出てきたもの(結果)に対して、「ハズレだけど愛着を持つ」か、「ハズレだから捨ててしまう」かという選択まで含めて、上手い比喩だと思う。

そして舞台の中では、どちらに対しても肯定も否定もしていないように感じた。「ハズレ」と思って人生を捨てる人もいれば、愛着をもって懸命に生きる人もいる。そのどちらも同等に1つの命、1つのカプセルから生まれた、唯一無二の、ありふれた、たまたまそうなった、尊く、軽い、命。

ただその事実だけが淡々と示される。

本島が描いた「ユートピア」の誤算

面白いと思ったのは、「sphere of sphere」によって生命を誕生させる仕組みによって国家体制を再建した大統領・本島が、その「sphere of sphere」によって生まれた子(岡上の遺伝子)に殺害されるという結果だ。殺害理由は「こんな仕組みを作ったこと」に対する恨みからだった。

これは、おそらく安倍元首相の暗殺事件をなぞらえているのだろうと思う。母親が「統一教会」の狂信的な信者であった宗教二世の容疑者が、統一協会との蜜月だった(とされる)安部元首相を、自身の(家庭)の不幸の元凶として、復讐した。「親ガチャ」の恨みという点で共通している。

遺伝子を残すことに対する抵抗感、諦め、子どもが親に捨てられる(愛情が注がれない)という不幸に対する打開策として構想された「sphere of sphere」。しかし、「本人に選ぶ術がなく、本人の意思に反して誕生する」という本質を変えることができない以上、結局は「親ガチャ」問題を乗り越えることはできなかった。

舞台のラスト、「sphere of sphere」の下から無数のシャボン玉が吹き出す演出は、美しくもありグロテスクでもあった。人生の儚さ、その中で光る美しさがある一方で、その1つ1つがまるで「受精卵」のようで、それが(見えない何かに)押し出されるかのように噴出する様子がグロテスクでもあった。「私」の人生なのに、その「私」が知らない、「私」という物語の始まりの始まり。その瞬間を見るようだった。

観劇後…

見終わって三軒茶屋駅のホームに向う時、改札から出てくる人の群れに車酔いをした時のような気持ち悪さが襲ってきた。それまで「群衆」という言葉で効率よく脳内で処理していたのが、1人1人の人物が「1つカプセルから生まれて、何かしらの幸せと何かしらの不幸を背負って数十年を生きている1つの個体」として粒だって見えて、その情報量の多さに圧倒され、酔いそうになった。

誰かが勝手にカプセルを開けて始まった「人生」は、陽気な不穏さと、静かな残酷さと、笑えるような虚しさと、心もとない希望で溢れていて、そんな全てがマーブル状になって鈍色に輝く「人生」は、儚さを感じるよりも先にやがてあっけなく弾けて消える。
そんなことを言われた気がした。

親ガチャ問題。実は個人的にもすごく関心が高い問題で、自分で選ぶことができない何かしらの「しがらみ」から逃げることができる社会になればいいと思っていた。そういう意味では本島の思考回路と近いかもしれない。

noteでそんな思いを綴っているので、もし気になる人はこちらも読んでいただければ幸いだ。

「逃げる」ことができる社会に|yomotsu(よもつ)
逃げずに頑張ることは素晴らしい。 だけど逃げずに頑張る事が必ずしも「幸福」につながるとは限らない。 とくに「家」の中のことに関しては。 昨今、市民権を得ている「親ガチャ」という言葉は、そのことを象徴しているだろう。経済格差、ヤングケアラー、ネグレクト、DV、介護問題、宗教二世……。本人の意思でその家に生まれたわけでも...

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