映画『国宝』レビュー|”芸”か”血”かー歌舞伎に生きた2人の運命の物語

舞台・映画

連日話題となっている映画『国宝』。吉田修一氏の同名の小説の映画化とあって、歌舞伎ファンの間でも期待値の高かった作品で、公開以降はSNSで歌舞伎俳優や長唄などの関係者の方の絶賛コメントが止まない。

歌舞伎を扱った作品の中でも近年、というかほぼ初めてでは?というほどの「国宝」ブーム。ようやく観に行くことができたのだが、ただ一言「圧巻だった」。久しぶりに骨太で美しい映画を見た。

あらすじ

後に国の宝となる男は、任侠の一門に生まれた。

この世ならざる美しい顔をもつ喜久雄は、抗争によって父を亡くした後、
上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。

そこで、半二郎の実の息子として、生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介と出会う。

正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人。

ライバルとして互いに高め合い、芸に青春をささげていくのだが、多くの出会いと別れが、運命の歯車を大きく狂わせてゆく…。

映画『国宝』公式HPより一部引用

原作となった小説も数年前に一度読んでいたので、ある程度の話の筋は知っていたが、原作は上・下の2巻に分かれるほどの分量。これが(映画としては長尺だが)3時間という限られた時間の中で、どれほどその世界観を表現できているのだろうか。

※以降、ネタバレ含みます。

【魅力1】吉沢亮・横浜流星の”本物”に迫る演技

まずは、主人公・立花喜久雄(花井東一郎)を演じる吉沢亮、そして喜久雄と兄弟のように育った、生涯の友であり、ライバルである大垣俊介(花井半弥)を演じる横浜流星、この2人の演技が素晴らしい。

素の喜久雄、俊介の時の演技はもちろんだが、役者として舞台に上がった時の歌舞伎の演技も、1年半ほど稽古を重ねたという歌舞伎の所作、女方の声に違和感がない。私も能の仕舞や茶道など日本の伝統文化を多少なりとも習っているから分かるが、現代の人にとっては重心を下にするような立ち方、歩き方は一朝一夕でできるものではない。観客が自然に見ることができるまでになるには、当人たちの並々ならぬ努力があってこそだ。

両者ともに高いレベルにまで仕上がっていることを前提に、個人的な感想を言えば、「女方の顔」になっていたは吉沢亮、「女方の声」になっていたのは横浜流星、という印象だった。

常々歌舞伎の女方というのは、「内へ内へとベクトルが向いた女性」というイメージがある。特に作中でも登場した『鷺娘』や『娘道成寺』など「恋にその身を焦がす」女性像が多い。そうした盲目さ、「純粋な狂気」というべきか「狂気的な純粋さ」というべきか、吉沢亮の瞳孔が開ききったような眼が、普段歌舞伎を観ていて女方の役者に感じるそれと同じ感覚になった。(一方で横浜流星の眼は、前半の「二人道成寺」は眼光が鋭すぎる。ただ、それが「御曹司という立場に安心している時の自信に満ちた顔」でもあるので、そういう意味では演技としては正解なのだと思う。)

一方で声の方は横浜流星の方に軍配を上げたい。後半になればなるほど、普通に「女方」として観ていた自分がいる。

『曾根崎心中』の演技などは、実際の歌舞伎の芝居からしたらオーバーというか、ドラマチックにし過ぎで、あれが「歌舞伎」の芸そのもの(歌舞伎の中で求められている芸)かというと、それは違うだろう。ただ、歌舞伎の中で表現しようとしている役の性根を、現代的な感覚で表現するならああなるということで、そこは映画の中での説得力として見ごたえがあった。

【魅力2】田中泯の眼と手

当代一の女方で人間国宝の万菊を演じた田中泯。もともとダンサーである田中泯が、歌舞伎俳優という役をどう演じるのか、その点に非常に期待していた。結論としては、やはりというべきか、手の仕草1つで「この役にこの人をキャスティングした意味が分かる」と思わせるものだった。

会話をする時の独特なテンポ、声の調子も、昭和期の歌舞伎を知っている人なら誰もが「あの人をモデルにしているのだな」と分かるほど、当時の歌舞伎界を牛耳っていた稀代の女方の風情そのものだった。

喜久雄や俊介の心の裡をすべて見透かし、ブラックホールのように吸いこんでいくような眼差し。晩年になって、落ちぶれた喜久雄を呼び出した時の手招き1つの怖さ。その一瞥、一仕草が重い。

田中泯の演技に関しては、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時でも、藤原秀衡の演技が素晴らしかった。すでにこの世にない藤原秀衡が、源義経(菅田将暉)の最期の時に亡霊として現れるのだが、その時におもむろに天に向かって腕を上げ天界を指すような仕草をする。まるで「踊りと演技のギリギリの間」というようなその抽象的な仕草によって、藤原秀衡がすでにこの世のものではないことが自然と感じられ、義経を導こうとする想いを伝える。ダンサーであり俳優である田中泯だからこその演技だと思ったものだ。

今回もそれと同様のものを感じた。決して登場シーンは多くはないが、強烈な印象を残し、歌舞伎という世界の、(”奥深さ”などという言葉では生温い)底の深さ、恐ろしさを一身に体現してみせている。

【魅力3】近代以降の歌舞伎界の美と醜―歌舞伎役者の業

これは原作に対する評価でもあるが、近代以降の歌舞伎界をここまで丁寧に描いた作品はあまりないのではないだろう。明治時代以降、それまで江戸庶民の芸能で「悪所」とされてきた歌舞伎が、9代目市川團十郎をはじめ「演劇改良運動」によって高尚化し、「国宝」制度の成立に伴い、いわゆる”人間国宝”になればその地位は盤石なものとなった。

その功罪というべきか、光が強くなればなるほど影も濃くなる。映画では、「歌舞伎という日本の伝統芸能に生涯をささげた2人の若者の物語」というきれいで爽やかな物語に留まっていない。「世襲制」という問題(才能はあれど役者の血筋でない者、御曹司だけれども実力が伴っていない)に対して、喜久雄と俊介、そして2人の師である俊介の父・花井半次郎(渡辺謙)それぞれの葛藤、絶望、執着…。それが軸となって描かれている。

特に半次郎襲名の口上の際、倒れた半次郎改め白虎(渡辺謙)が、朦朧とする意識の中口にした「俊ボン」の名。どれだけ”血”よりも”芸”を重視する姿勢を貫こうとしても、最後の最後、心の奥底にあるものは、才能を持ち合わせ、芸道に励み続けた喜久雄(東一郎)ではなく、8年前に出奔した実の息子である俊介への思い。望む望まないにかかわらず切っても切れない”血”というつながり。しがらみ。その残酷さに打ちのめされる”血”を持たない喜久雄。三者の孤独が痛ましい。

ほかにも隠し子問題しかり、芸のために女を使うなど、まぁコンプライアンスなんてクソくらえと言わんばかりのアウトな部分も描いている。それぞれの役者が、決して「芸道を極めんとする」キラキラした人物像ではなく、泥臭く、ズルく、浅ましく、ひたすらに突き進む。

ひと言で言えば「業が深い」。でも怖ろしいことに、その業が深ければ深いほど、翻ってその奥にある純粋な部分が見えてくる。ラスト、人間国宝にまでなった喜久雄の前に現れたカメラマン(実は隠し子であった喜久雄の実子)の言葉は、まさにそのことを表現しているのだろう。(そう思うと、このカメラマンが最後に喜久雄に伝えるセリフはいみのあるものなのかもしれないが、個人的にはここでは中途半端に喜久雄の所業を許すような発言などさせず、彼女にとっては「父親」としていてくれなかった憎き相手のままでいてほしかった気もするが)。

【気になった点】

気になったというほどではないが、せっかくのこれだけのキャスト、これだけのこだわりを持って作られた作品だからこそ、こうしてほしかったという願望もあった。

①稀代の女方として登場する大御所俳優・万菊(田中泯)の『鷺娘』をもっと見たかった。

喜久雄が”国宝”の至芸に触れ、囚われ、その生涯を”芸”のために捧げる一因ともなった舞台であるこのシーン。もっと丁寧に見せてほしかった。せっかくダンサーである田中泯を起用しており、六世中村歌右衛門を彷彿させる佇まい、ただならぬ妖気をまとった芸がいかなるものかを、映像にエフェクトとかかけずに見せてほしかった。全体的に音楽やエフェクトでドラマチックにし過ぎなきらいは他のシーンでもあったが、ここに関しては特に強く”余計”に感じた。なんだったら観客には少し伝わりづらくても良いから、エフェクトで誤魔化す(余計な味付けをする)ことなく、田中泯という俳優の身体一つで見せてほしかった。

②歌舞伎の世界の雑多さを見たかった。

3時間という限られた時間にまとめなければいけないために、原作にあった(はずの)歌舞伎の世界の雑多な感じが完全にそぎ落とされていて、良くも悪くも「喜久雄と俊介の”芸”と”血”の狭間で葛藤する物語」に集約されていた。結果的にはそこに焦点を絞り込んだからこその本作の密度の高さでもあるので、「だからダメ」ということではなく、このクオリティの中でもう少し「歌舞伎の世界、匂いを感じられるシーンをもっと観たかったなぁという欲である。

また、原作ではずっと登場していた徳次(立花組で喜久雄の子分)が、映画では冒頭の闘争シーンのみだったことも残念。原作では、徳次が歌舞伎の三階さん(今でいう名題下)になって、喜久雄や俊介と共に育っていたことが、歌舞伎の世界の広がりを感じる上でも、喜久雄と俊介の物語の上でもいいスパイスになっていたと思うので、この徳次の存在がなかったことが残念だった。(特に後者の点では、喜久雄、俊介、徳次の”男同士の友情”という名の三角関係的な部分もあり、そこが本作の持つ”でろり”とした鈍く光る魅惑的な要素だったように記憶している。)

※原作を読んだのが数年前なので、記憶違いがあればご容赦くださいませ。

【まとめ】最高峰の芸道映画

最後に小言めいたことを書いたが、素人目線のさらなる願望、言い換えれば観る者の強欲さなので、本作が歌舞伎の世界の描いた映画として最高峰の出来であることは疑い得ない。

本作は歌舞伎の世界で生きる人間を描いているが、歌舞伎だけではなくあらゆる分野における「舞台に立つ人間」の「狂気」を描いている。その狂気は芸に対する「純粋」でもあり「業の深さ」でもある。

「芸」か「血」か。その間で運命に翻弄され藻掻く喜久雄と俊介。それぞれ歌舞伎に対する「純粋さ」と「強欲さ」を備え持つ。喜久雄が、稲荷神社の「神様」の前で「悪魔」と契約したと、隠し子である綾乃にうそぶくシーンは、まさにその象徴ともいえるのかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました