【レビュー】s**t kingz『HELLO ROOMIES!!!』@新国立劇場(前編)

エンタメ

2022年9月14日。新国立劇場(中劇場)で、s**t kingzの『HELLO ROOMIES!!!』(以下『ハロルミ』)が開幕した。

コロナ禍で公演中止となる興行がチラホラとある中で、東京公演(9/14~19)の8公演、その後の大阪5公演(11/10~13)、愛知4公演(11/18~20)、東京の凱旋公演5公演(11/29~12/1)と、予定していた全22公演が無事に開催されたことがファンとして何より嬉しい。

今回は、9月の東京公演の初日と千秋楽、そして凱旋公演の千秋楽の3回を観に行った感想を綴っていく。(書き出したら長くなったので、「前編」「後編」の2回に分けてお届けします)

『HELLO ROOMIES!!!』とは?

『ハロルミ』は、本来2020年に7都市で開催されるはずだったが、新型コロナウイルスの影響で延期となり、2022年9月~11月に東京・大阪・愛知で開催されることとなった。

台詞なし、ダンスのみで構成された「無言芝居」と銘打つ彼らの舞台は今回で5回目。

《ストーリー》
主人公のA子は、レンタルビデオ店で働きながら映画監督を目指す29歳。夢を諦めたわけではないけど、日々の生活に追われ、周りとの差を感じ、溜まっていく心のゴミ。そんな中、映画監督デビューを果たすチャンスが到来する。夢が叶うと張り切って挑むも、どんどん自分の望む形ではなくなっていき…。

本作最大のポイントは、主人公のA子が人形ということ。シッキン4人は「A子の心のゴミ」というイマジナリーフレンドのような存在として登場するほか、バイト先の店長、バイト仲間、映画プロデューサー…など、A子以外の登場人物を演じる。

人形が主役という今までにない形の舞台、コロナ禍で2年間の延期を経ての開催……一体彼らはどんな舞台を作り上げるのか、期待が高まる。

前半は「クセありキャラ×ハイクオリティダンス」でシッキンらしさ全開

今回の舞台、とにかく個性的(というかクセあり)キャラクターが目白押し。「そりゃA子も日々モヤモヤ(心のゴミ)が溜まるわ」と突っ込みたくなる人ばかり。すべてのキャラクターがインパクト大で、見終わった後は全員が愛おしく感じるのだが、全員を挙げているとキリがないので、ここでは4人のソロについて登場順に取り上げる。

Oguri:映画スター(A子が憧れる映画のワンシーンとして)

A子が幼い頃に見た映画の中のスターとしてタップダンスを披露する。他3人のソロがコメディ路線の中で唯一正統派路線のソロ。Oguriさんは「プロデューサー」という作中でもぶっちぎりのコメディキャラを担当しているから、ソロは正統派路線でバランスとったのかしら(笑)。

パフォーマンスは、Oguriさんのしなやかな体使いと華麗なタップ、くるくる変わる表情に、クラシック映画のスターが持つ紳士さとお茶目さ、オシャレさがにじみ出て、心地よく楽しい時間。途中から映像で大勢のタップダンサーがシルエットで登場し、映像のダンサーと一緒に踊る掛け合いとなり、より華々しいステージを演出する。(個人的には収録されたタップの音で、生のOguriさんのタップが聞こえなかったのがもどかしく感じたのだが、それは座席の位置で聞こえ方が違ったのか、そういうものなのか…)

Oguriさんは『だんしゃべ』(TOKYO FM「ダンサーだってしゃべりたい」の略)で、「人生で1つのジャンルしか踊れないとしたら何にするか」という質問で、タップダンスと答えていた。上昇志向の強い彼ならではの真面目さで、この『ハロルミ』の舞台をタップスキルをさらに高める場にしたのだろう。そして、かつて自身が『雨に唄えば』のジーン・ケリーに憧れたように、往年の「映画スター」役でA子の憧れの存在としてタップを踏む。このこともファンとしては胸アツだった。

kazuki:A子が働くレンタルビデオ店の店長(A子への愛)

kazukiさんがソロパートの中で一番コミカルなパフォーマンスだった。A子への(やや、というかかなり気持ち悪いレベルの)溢れ出る愛をテーマに、レンタルビデオ店の店長という役柄を絡め、歌詞に様々な映画をちりばめた楽曲で踊る。

お客さんへ手拍子を求めたりと比較的砕けたシーン。店長の愛はキモいレベルなのに、ダンスがやたらかっこいい!!私を含めおそらく多くの観客が「キモいのにかっこいい」という状態に困惑し、自分が感じているこの感情をどう表現していいのか分からなかったはずだ(笑)。我々はこの日、「キモい」と「かっこいい」は併存し得ることを知った。

コメディタッチに振り切るkazukiさんも、それまでの『お前、だれ』の舞台や、Youtubeの「カズキのタネ」での様々なダンスコンテンツ(「かっこいい」ものから「面白い」ものまで)での蓄積で、そのバランス感覚がさらに磨かれていったからこそ、ここまで振り切っても「イケる」と思えたのかなと想像する。

『だんしゃべ』(だったかな?)でkazukiさんが「若い頃は”自分が一番カッコよく思われたい”とか思っていたけど、今はそういう欲はなくて、全体を見た時に最高のパフォーマンスになっていればいい」ということを言っていたので、今回のソロもそういうことかなと思った次第。そしてその思惑通り、作中でかないいスパイス(インパクト)となっていた。その効果は着用しているA子のTシャツが、最終的にはグッズ化されたほどだ。

NOPPO:ゴキブリブラザーズ(ゴキブリの主張)

初めてこのパフォーマンスを見た時、誰もが「ズルい!!!」と思ったことだろう。ズル過ぎる。”忌み嫌われる生物代表”と言っても過言ではない「ゴキブリ」役で、めちゃくちゃコミカルな曲で、それでいて「かっこいい!!」思わせるなんてズル過ぎる。

そう、かっこいいのだ。ゴキブリなのに。まずもってA子の床下に住むゴキブリというキャラを登場させようとした経緯を知りたいくらいなのだが、とにかくA子の家のもう一つ(二匹?)の住人としてゴキブリブラザーズが登場し、床下で華麗に踊る。

人間からは忌み嫌われるゴキブリ、そのゴキブリ側からの主張をテーマにしたダンスだが、前半のキャスター付の丸椅子を使ったダンスが個人的には刺さった。椅子を使ったダンスはこれまでにもあるが、それをゴキブリの這う姿(初速の速さ含め)を再現するために使うという発想が面白い。

また、単純にゴキブリがイケイケなノリで踊るというギャップが面白いのだけれど、実は曲のメッセージは割と深いことに気づく。前半では椅子を使っているが、この椅子がゴキブリの這う様子を表すためにあるということは、言い換えれば「人間から見たゴキブリの姿」である。しかし、途中でその椅子(彼らを人間視点の姿に留めおく装置)を蹴り飛ばし華麗に踊ることで、人間からの視線(他者の意見)から解き放たれ、自らの特性を高らかに主張する。歌詞で「嫌われる特徴はすべてが僕らの魅力」と歌われるように。

深かった。ふざけたふりして深かった…。ラストに容赦なくスプレーを噴射されてやられてしまうオチまで含めて深かった(笑)

よもつ
よもつ

でも、実際のゴキブリが私たち人間に絶大な恐怖感を与えておいて、裏であんなにイケイケで踊ってると思ってたら一層腹が立つかも(笑)

shoji:ゴキブリブラザーズ(亡きブラザーへの思い)

shojiさんもゴキブリブラザーズとしてソロを踊る。前半にA子に退治されてしまったブラザー(NOPPO)の遺影を前に、それまで飛べなかった自分が、勇気を出して飛び、その姿を亡き友に見せようとする泣かせる展開。まさかゴキブリが『ハロルミ』のサブストーリーになっていたとは。

『I’ll be there』や『My friend Jekill』でも感じたのだが、個人的にshojiさんの落ち込んだり、苦しみ藻掻くさまを表現するダンスは、毎回胸が締め付けられるように切なくて良い。shojiさん自身の経験からくるのだろうが、胸の中に痛みを抱えているのを周りに心配されないように笑ってごまかしてしまうような複雑な心情の表現が上手い。そういう時に人がどんな顔になるのか、どれだけ体が重くて動かないか知っているんだなと思う。その気持ちの暗さ、重さ、虚しさ、辛さ…そうした感情の襞が細やかだなと思う。だからshojiさんのフロアのダンスは「自分の姿」と思えてしまう真実味がある。

正直、最初は「4人中2人がゴキブリキャラでソロ?キャラ被ってるのバランス悪くない??マウントル子でソロでも良かったのでは?」と思ってしまったが、そんな自分を叩いてやりたい。大切な人を思い続けること、その人の存在が勇気になること、その勇気を出して一歩を踏み出せば光があること…そんな大切なことを表現している。まさかゴキブリからそんな素敵なメッセージをもらうことになるとは…

上手く飛べずに外の世界に出ることに怯えていたのが、友人の言葉を胸に外の世界に触れようとする健気な姿を見せるーーその姿に胸打たれ、観客がこのゴキブリブラザーズに愛着が湧き、そして遺影の友と希望の乾杯をしたところで、同じくスプレーで駆除されてしまうというオチ。容赦がなくて良い。

『ハロルミ』は古典芸能と似てる!?

実は今回の舞台、初見の感想は「この演出、歌舞伎(でよく見るやつ)じゃん!」ということだった。また、一番のポイントである人形のA子についても、今年の6月2日に開催されたファンサイトイベント「062感謝祭」で練習風景が配信された際に、「これはもう文楽!!」と驚嘆した。

世界的ダンサーであるシットキングスの最新舞台、さぞや”新しい”表現に出会えるかと思ったら、その手法が実に”古典的”であった。最初の観劇はこの衝撃が大きかった。

これは決してネガティブに言っているのではない。むしろ、舞台を作る上での彼らの引き出しの中にそうした手法が加わったことで、さらに「シッキンらしさ」が際立ち、彼らのオリジナリティ(クリエイティヴィテ)を証明することになったということだ。

人形遣いとしてのシッキンーー文楽との共通点と違い

人形の使い方については、前述の062感謝祭を見た後に書いた記事に長々書いたので、時間がある人はそちらをご参照いただきたい。

※その時の記事はこちら。

文楽との共通点は、人形を「人間のように」魅せる写実性の高さである。教育番組で見るようなパペットや着ぐるみのキャラクターのようなかわいらしい「人形らしい」動きではなく、あくまで「人間」として見えるように洗練された動きを追求している。この点が『ハロルミ』が人形劇ではなく「文楽に近い」と思わせる点だ。

よもつ
よもつ

舞台を観て特に「おっ!」と思ったのが、A子が段ボールやビールなど物をつかむシーン。人形を動かしている人の手が「A子の手」として小道具を持ったりしているが、この方法も文楽でもしている。おそらく彼らは勉強してそうしたのではなく、自分たちで実際に動かして一番スマートに動かせる方法を追求した結果、同じ所にたどり着いたのだと思う。ダンサーとして「どう見せればそれらしく見えるか」、あるいは「何をしなくても理解してもらえる」という線引きが、ダンサーとしての経験で分かっているんだろうなと思った。

さて、6月の練習では4人でA子を踊らせる(動かす)フォーメーションを探っていた。これは物語のクライマックス、A子が一度心が壊れてしまった後、もう一度立ち上がる『炎』のシーン(いわばA子のダンスソロ)の振付を探るための練習だったのだと初日の舞台を観て気づいた。

文楽では、基本的には人形をどれだけ写実的に動かすかに重きが置かれる。いわゆる「型」と呼ばれる様式化されたポーズはあるものの、基本的人形は「人間のように」動かす。『ハロルミ』も同様に、基本的にはA子が人間に見えるように動かしているのだが、一方で人間では表現できない人形だからこそできる動きも随所に入れている。

例えば酔っぱらってフワフワした気分のままベッドに向かうシーンでは、ゴミたち(NOPPO&kazuki)がA子を放り投げてベッドまで運ぶ。あるいは、物語のクライマックス、自分の望んだ道から外れていく現状にうっぷんが溜まりだし、自分の思いがないがしろにされたまま進んでいく現状を、A子を天井から吊るして宙ぶらりん状態にすることで表現している。

こうした極端な表現は、A子を実際の人間が演じていたらできないし、人形を使ったとしても例えばストレートプレイだったら浮いて見えたかもしれない。ダンスという物事を象徴化する表現手法で構成されている舞台だからこそ、A子が「人間らしく」動いても「人形らしく」動いても成立するようにできていると思った。

ダブルミーニングの衣装

舞台を観てまず驚いたのは、『TRASHTALK』の衣装(「ゴミ」をモチーフにした白い衣装)が、舞台ではA子を動かす時の黒衣(くろご)としての役割を担っていることだった。

『TRASHTALK』のMVをさんざん見てきた私としては、「白の衣装=ゴミ」が刷り込まれていたので、舞台を観て「ゴミ」の衣装であると同時に、A子を動かす「黒衣(=存在していないと見なす)」というダブルミーニングになっていたことに感服した。

確かにこれ以上にない最適な色だ。4人の衣装も、細かいデザインは違うが、ベースは統一されているので、A子の操作を入れ替わっても不自然にならない。物語のコンセプトを表した衣装というだけでなく、舞台進行のための機能性も備えている素晴らしいデザインだ。

これについては9月に書いた『HELLO ROOMIES!!!』と歌舞伎という記事の中でも書いたのだけど、本来「黒衣」の衣装を着て小道具を扱う人と、メインキャストとして出る人は明確に区分されているはずなのに、その”お約束”をシッキンは軽々超えていく。

思わず「歌舞伎!?」と思った仕掛け満載の舞台装置

『ハロルミ』では舞台中央に設置されたセットは、三方にそれぞれ「A子の部屋」「レンタルビデオ店」「街中」のセットが作られており、スタッフがセットを回しながら場面転換をする。

この大道具を回して場面転換させた時「歌舞伎じゃん!」と心の中で叫んだ!そもそもこの大道具を回転させて場面転換する手法は歌舞伎が発祥だ。

その他にも、キッチン下の戸棚に入った小道具のゴキブリ(とOguri)が、床下からゴキブリブラザーズ(shoji&NOPPO)として出てくる仕掛けなど、歌舞伎で用いられる演出が多用されている(そう思うのは、単に私がよく歌舞伎に接しているからで、歌舞伎の専売特許ということではないのだけど)。

『ハロルミ』と歌舞伎については下記の記事で詳しく紹介していますので、ご覧ください。

まとめ

今回の記事では物語の前半(主にソロパート)と舞台セットや衣装に注目したが、こうした一連のポイントをまとめると、前回の『the Library』が「ダンスをするための舞台」であったのが、『ハロルミ』は「舞台のためのダンス」と、その主従関係が逆転したように思った。

もちろん「超踊る喜劇」の謳い文句にたがわず、めちゃくちゃ踊っているし、ダンスだからこそ伝わる表現に溢れている。その上で、「ダンスのために物語がある」のではなく、「物語のためにダンスがある」と思わせるように、舞台全体の軸が「シッキンが踊る」ということ以上に「A子の人生を届ける」ということにあって、そのために彼らが全力で踊っていると感じた。

後半ではそうした観点からさらに感想を綴っていきたい。

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