タップダンスを初めて約1年が経った。まだまだ華麗なステップなど程遠く、バタバタと慌てふためくか立ち尽くすのどちらかだが、今はできないことも含めて楽しくやっている。
私がタップダンスを始めるきっかけとなったのがブルーノートでのライブだ。近年の推しであるシットキングスのOguriさん見たさに勢いで取ったチケットで、私はタップダンスに出会った。
「chit chat」と銘打たれた公演は、音楽とダンスをまるで会話するような気軽さで楽しむことをコンセプトにしたショーで、このときはタップダンサー3人、ダンサー3人が出演していた。
安達雄基さんのソロのタップを見た時、特別な大道具などないシンプルなステージの中、蒼い照明に照らされてタップを踏む姿を見て脳裏に「求道者」という言葉が浮かび、「能みたいだな」と思った。
足を踏み鳴らすタップとすり足で動くことが基本の能、何が似てるのかと訝しがられるかもしれない。また即興の要素も多いタップと、最初から最後まで型が決まっている能はむしろ対極ではないかとのが指摘もあるだろう。そうした視点で見れば確かにそうなのだが、私が似てると感じたのは「世界の立ち上がらせ方」なのだ。
歌舞伎、あるいはミュージカルの舞台のように作り込まれた世界の中で踊るタイプのものは舞台の中心(演者という中心)に意識が向うが、この時のステージや能はむしろ演者の踊り(舞い)によって世界を想像させる、つまり演者を起点に外へ向かって世界が広がる感覚なのだ。それを世界の立ち上がらせ方とここでは言いたい。
足で床を踏み鳴らす、たったその1つの表現方法に集約された、極限まで削ぎ落とされた手法に、能の「幽玄」の世界を見た。
考えてみたらタップダンスは黒人奴隷たちが楽器など奪われ音楽が奪われた時に生まれたものだ。かたや能の基本的な構成は、この世に何かしらの未練をもつ死者の言葉を聞く、というものだ。どちらも声を出せないものが「我ここにあり」「私の声(言葉)を聞いてくれ」という精神が根底にある。足を踏み鳴らすというのは「我ここにあり、私の声を聞いてくれ」という最小限の表現なのだ。
その頃私は能の謡(うたい)の稽古をしていて、能に通ずる精神性、象徴性に惹かれてダンスの中でも特にタップダンスを「自分がすべきダンス」として考えるようになった。
私が最初に能の謡(うたい)を稽古していただいた故・野村幻雪(四郎)氏の追善公演で上映されていた生前のインタビューで「若い頃はイタリア映画が好きで、後はタップダンスも見てた」ということをおっしゃっていて、思わず「先生!私タップダンス始めました!!」と心の中で報告した。先生がタップに能と通ずる点を見出したかは分からない。単に若い頃に見ていたものの1つだったかもしれないし、むしろ能とは縁遠いからこそあえてインタビューでそう答えたのかもしれない。
能とタップダンス、どちらも初めたばかりなので、このまま続けて行く中で、私の直感的な感想はもしかしたら全くの検討違いであると思い至ることになるかもしれない。ただそうであっても、稽古を続ける中で気づくことがあるなら、それが私のタップであり能になって行くだろう。
あの時の直感が合っているのか違うのか、それを見極めるまで、踏み鳴らし、謡い、舞っていく。
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