「The Great Dictator – Final Speech / s**t kingz」を見て思う事

舞台・映画

まずはこの動画を見てほしい。

 ダンスグループs**t kingz(シットキングス、以下シッキン)が、2020年11月11日「世界平和記念日」に公開した動画で、喜劇王チャールズ・チャップリンの『The Greate Dictator』(以下『独裁者』)の映画でチャップリンが行ったスピーチをダンスにしたものだ。彼らがこの作品を発表する経緯には2020年に起きたBlack Lives Matter運動がきっかけだった。世界中でパフォーマンスをしてきた彼らが、同じダンサー仲間が差別や分断に苦しんでいることを知り、自身の考えを表明したいと思ったことから制作された。(彼らの思いについてはyou tubeの概要に記されている。)

 公開当時、映像に圧倒されて息を吞み、見終わった時には泣いていた。しかしうまく言葉にできなかった。扱うテーマが重く軽々しく感想を言えるものでもないし、ダンスの専門知識もない私には本作の凄さを伝える知識も言葉も持ち合わせていなかった。この全身に流れる感情をどう説明していいか分からず、ただ圧倒されるばかりだった。
 それを公開から半年経った今になってなぜ語りだしたかというと、先日テレビ朝日系の音楽番組『関ジャム』にシッキンが出演した際、この作品がノーカットで放送されたからだ。番組を見ていた際、この「ノーカット」というテロップが表示された時に込み上げてくるものがあった。「この作品がノーカットで全国放送されるなんて」。番組の中で本作の発表には困難があったことを語る彼らを見て、様々な苦労や葛藤、怖さもあったかもしれない、そうした思いを乗り越えて世に出した作品に対して、一ファンとして、一人の人間として感じたこと、受け取ったことを拙くても言葉にしておきたいと思ったのだ。
 既に3月にはダンサーとして異例のMステ出演(バックダンサーとしてではなく、一組のアーティストとして)を果たしたシッキン。それはダンサーにとって歴史的瞬間であり、ファンとして喜ばしい限りの事だったが、この『独裁者』が地上波でノーカットで放送されると知った時の方が私自身の感動は大きかった。それはMステ出演があくまでも「ダンサーにとっての慶事」である一方、本作が地上波で全国放送されたことは(ダンスをやっている人でなくても、シッキンのファンでなくても)日本中の誰もが本作に出会う事ができることを意味し、それが「日本に住む人々にとっての慶事」のように思ったからだ。

”シッキンらしさ”を捨てて…

 ついつい主語が大きくなったので、ここから本作の意義を綴っていく。まずBlack Lives Matter運動が起きた時、私が思ったことは「目を背ければ世界は平和だ」ということだった。皮肉的な言い方をすれば「最も楽に平和を実現する方法は目を背けること」だ。私自身、生まれてから今までそれほど大きな苦しみや迫害を受けたと思う瞬間もなく、幸か不幸か実に平々凡々たる日々を送り、私の中では”世界は平和”だった。しかしそれはたまたま私が何かしらの大きな問題に直面することがなく、たまたま周囲にいなかっただけの事だ。いや周囲にはあったかもしれない。見ていないだけで。そうぼんやりと思っていた(だけな)ので、シッキンがこの問題を契機にメッセージを発信したことに驚き、感嘆し、目を背けなかった彼らを誇らしく思った。


 この作品の意義は、彼らの言う通り、今まさに起きている差別や分断、偏見、搾取…様々な問題に向き合い、表現したことだ。このことについては本人たちの言葉にもあり、様々なインタビューでも触れていることなのだが、ファンである私としてはそこに「シッキンらしさを捨てた」ことを付け加えたい。「ダンスのレベルの高さ、振付や構成、どこをとってもシッキンらしいじゃないか!」とツッコまれそうだが、ここでの”シッキンらしさ”とは「ポジティブでハッピーな作品を届ける」というこれまでのシッキンのパフォーマンスに共通するスタンスのことで、彼らはこの問題に向き合う時に、これまでのスタンス(得意とするやり方)で作品を作るという選択をしなかったということだ。デリケートで重いテーマなのだから当たり前にも思えるかもしれないが、実はこれって結構凄いことじゃないかと思っている。


 Black Lives Matterの問題にしろ、その他の諸問題にしろ、問題に対するアンサーとして「こういう問題がある世の中で、自分達にできることは世界が平等で平和であること、ハッピーになれることを願い、そうした作品をつくることです!」という感じでポジティブでキラキラした作品を作ることもできたはずだ。それであっても素晴らしいパフォーマンスができる人たちだろう。先述の『関ジャム』内で、周囲のスタッフ陣が本作の制作に躊躇したという経緯が語られたが、その気持ちも十分理解できる。政治的・社会的な問題に対し著名人が意志を述べることがあまり浸透していない日本で、どれだけ正論であろうとも(あるいは正論であるからこそ)何か主張をする人は「厄介な人たち」認定をされてしまいがちだ。そうなってはせっかく活動の範囲が広がりつつあるのに今後の活動に影響するかもしれないと危惧するのは、マネージメントをする側としては当然だろう。


 しかし彼らはそうしなった。「世界の分断という問題を”使って”自分たちのパフォーマンスを見せつける」ようなことはせず、むしろ「この問題の”ために”ダンサーとしての自分たちの身体を捧げた」のだ。痛みは痛みのままに、苦しみは苦しみのままに、怒りは怒りとして、悲しみは悲しみとして、恐れることも嘆くことも立ち上がることも全て含め、「問題を問題のまま」にして伝えることを選んだ。余計なコーティングをせずに伝えることを選んだシッキンメンバー、その思いを”大人の事情”的な観点で黙らせることをせず、最終的に理解しフォローしたスタッフ陣、全ての人の決意を讃えたい。

シッキンに勇気を与えたチャップリン、チャップリンを救ったシッキン

 「問題を問題のまま」に伝えるにあたり、彼らの選んだ手法が『独裁者』のスピーチに振りを付けて踊ることだ。この題材の選んだことも秀逸だと思う。例えばきっかけとなるBlack Lives Matterというフレーズを使ったり、あるいはそれを題材に新たに曲を作るなどしたとしよう。するとそこから伝わるメッセージは限定的になり、かなり尖ったものになっていただろう。80年前のスピーチを借りることで普遍性を持ち(チャップリンがスピーチした当時のメッセージが今なお有効であることが嘆くべき事なのだが)、こうした諸問題に対して疎い人(直接的に関係していない人)にとっても耳を傾けやすくなる。またこの演説自体、冒頭に「ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も」と言っているのみで、具体的な言葉で問題の範囲を限定していない。もちろん当時はナチス政権(独裁政治)という具体的な事象に対する批判としてであるが、その演説が今なお有効である理由には、演説が普遍性をもつ言い回しになっていることが挙げられるだろう。


 そのためスピーチを聞いた10人が10人それぞ自身が関心を寄せる問題を投影することができる。ある人は人種問題として聞き、ある人は性差別の問題、ある人は政治問題、ある人は貧富の格差、もしかしたら自分の会社の中の問題として聞くかもしれない。各々がそれぞれ抱える問題を包容するだけの器をこのスピーチが有している。だからこそシッキンは踊れたのだ。このスピーチがもっと直接的な内容であったら、恐らくスタッフ陣が心配したであろう結果を招いたかもしれないし、この問題に対してアクションを起こすというプロジェクトが頓挫してたかもしれない。そういう意味で、チャップリンがシッキンに表現する勇気を与えたと言えるだろう。


 少し話は変わるが、Black Lives Matterの声が出始めた頃にインスタグラムで多くの人が真っ黒な画像を投稿し、一時インスタグラムのアプリを開くと真っ黒の画像が流れるようになった。これが正直怖かった。この画像を投稿する人たちの思いを頭では理解できるのだが、瞬発的に恐怖心が先に来た。それは黒が”死”や”闇””絶望”といった暗い負のイメージを象徴する色としてあったし、何色にも染まらない、染められない「黒」のイメージを突き付けることが、何となく分断を大きくする気がしてならなかったからだ。主張したいことは分かるがその表現があまりに受け手側に突き付ける感じがして、この問題を解決するための表現はこれではないんじゃないか…と思っていた。(あの時のあの運動を否定する訳ではない。私が受け止めきれなかったという事であり、そういう人もいるという事を知ってほしいという意味で記している。)それを思うと、この演説は力強くあるが同時に優しくもある(シッキンのダンスでこのスピーチを知ったので、ダンスがクッションになってくれていたのかもしれない)。

 そして、『関ジャム』の中で三浦大知が本作に対し「言葉で踊りました、という”飛び道具”になっていない。ちゃんとメッセージが伝わってくる」と言っていたのだが、この言葉を聞いて思い至ったのは、今回のシッキンのパフォーマンスによって、チャップリンのこの演説もまた「飛び道具」的な扱いから救われたのではないかという事だった。


 「映画史に残る名スピーチ」「無声映画にこだわったチャップリンが初めて作ったトーキー(有声映画)」などと説明されるように、この演説も時代の中で、名作であるが故に映画史・チャップリン史におけるエポックメイキング(=飛び道具)的に語られるようになってしまった。チャップリンがそれまでのスタイルを破ってまで伝えようとした根幹の「思い」が「制作背景」になってしまったのだ。今回シッキンがその映画からスピーチの音源だけを使い、それに自身のダンスを付与したことで、「映画史に残る名スピーチ」というレッテルからこの演説を解放させ、80年の時を経て本来のメッセージそのものの価値(意義)、強さを取り戻したのではないかと思った。恐らくチャップリンが後世の人々に望んでいることは『独裁者』を「映画史に残る名スピーチ」と讃えることではないだろう。あの演説で訴えた世界を実現することのはずだ。そう思えば、チャップリンがそれまでの無声映画の手法を用いずトーキーでこの演説をしたことと、シッキンがこれまでのポジティブな作風(表現)を用いず「重い問題を重く伝える」ことを選んだこと、その姿勢も通じている。

世界を表現する最小単位としての4人

 ここからは映像そのものに対して思うところを述べていく。初見はただただ圧倒されるばかりであったが、何度か繰り返し見る中でシッキンの構成力の高さ、表現の仕方の巧みさに気づく。

 私が一番強く思ったのが「4人いれば世界のあらゆる事象を表現できる」ということだ。シッキンのことを知ったのは2018年からで、結成して10年以上経つ彼らの歴史のほとんどを知らないのだが、それでも言えることは、彼らが表現する世界は基本的に「仲良し4人組」という狭いスケールだ(その関係性は”友達”だったり、”同僚”や”家族”であったりと様々だが)。


 しかし今回の『独裁者』のスケールは正に「世界全体」である。この広すぎるスケールをたった4人で表現しなければいけないのだが、その表現が実に見事であったが故に先の感想に至った。世界全体、言い換えるなら「群衆」を表現するのに、4人が最小単位なのだ。もちろんこれ以上増えれば「群衆」の表現はそれだけ迫力が増したり、細かな表現もできるが、逆に「群衆」という概念を突き詰めて、核となる部分だけを残してそぎ落としていけば、その表現は4人いればいいのだ、という印象を持った。


 反対に4人より少なくなれば「群衆」にならず「世界」にならない。1人で「世界全体」を表現するのはかなり難しく、どうしたって「個」にならざるを得ない。2人では対立関係(一方と他者)という構造になってしまい、これも世界の多様さ、複雑さを表現するにはあまりに少なく、ともすれば事の発端である差別や分断といった問題そのものの構造になってしまいかねない。3人の場合1人や2人よりは表現の幅が広がり、V字になればシンメトリーの構成を作る事もでき安定感のある構成だが、「群衆」というイメージには弱い。せいぜい「組織」位のスケールだろうか。また3人の場合、ユニゾンの他には「2対1」の構成しかなくなり、必ず誰か1人が孤立してしまう。それに対し4人の場合、全員揃ったユニゾンの動きになれば「大勢」のイメージになり、「2対2」に分かれればシンメトリーにでき、対立・対称関係を表現することができる。「1対3」に分かれれば「マジョリティ/マイノリティ」という関係にもできるし、「1人の主役に対する背景」としての表現もできる(今回の場合はこの構成が多用されている)。この構成のバリエーションと、彼らの得意とする複雑な絡み合いや細やかな振付の掛算によって、まるで世界のあらゆることを表現し得るのではないかと思わせるほど複雑で豊かな表現をしている。
 番組中、Oguriさんが「一人じゃ諦めていたかもしれない。4人だからできた」と言っていた。これは精神的な支えという意味での発言なのだが、その表現においても「4人いたからできた」ことだと思う。

誰もが被害者になり、英雄になり得る

 映像の前半は差別、迫害、搾取…様々な苦しみに直面する人々の姿が表現されている。私はこの前半の表現が本作の素晴らしいところだと思っているのだが、それは誰か1人が「被害者」、「加害者」、それを助ける「英雄」といった固定された役割になっていない事だと思う。映像の37秒時点ではOguri、48秒時点ではshoji、1分10秒時点でNOPPO、1分24秒時点でkazukiがそれぞれ「1対3」の「1」(=被害者)となっている(その時の残りの3人は、その苦しみの原因となっている社会そのものを表現する)。ある問題では誰かが被害者となり、別の問題では別の者が被害者となる…目まぐるしい構成の変化が社会の変化、気づけば苦しみの内に飲み込まれてしまう状況を象徴している。そして1分27秒、4人全員が床に倒れる。スピーチにあるように、誰もが「歪んだ支配の犠牲者」なのだ。


 そして後半、チャップリンが声高に「Soldiers!!」と叫んでからは、は多少のシンメトリーな構成や「3対1」の構成になる事もあるが、基本的はユニゾンで「群衆」として全員で立ち上がり、立ち向かう。そこに確固とした「英雄」はいない。一人でスピーチをしたチャップリンは”英雄”として”群衆(=鑑賞者)”に語り鼓舞した。それとは異なり、この作品では誰もが被害者になり、その被害者であった彼ら自身が立ち上がる。つまり誰もが”英雄”となることを表現している。この違いはまさしくSNSで声を上げることができた今の時代の”革命”の在り方に通じるだろう。

「カッコよさ」という劇薬

 番組内でこの映像が流れた後、出演者の感想の中で古田新太が発した「重いテーマだけど、見ていく内にカッコイイと思った」というコメントが妙に引っかかった。いいコメントにも思えるのだが、この作品を表面的とも思える「カッコよさ」に帰着させて良いものかと。ただ、確かにこの映像はカッコいい。カッコいいから私も息を呑み、涙を流したのだ。ではなぜ素直に「カッコいい」と言うことに引っかかったのか。この記事を書くにあたり色々考えを巡らす中で、タイトルにつけたように「カッコよさ」というのは劇薬だからだと思い至った。つまり「カッコいい」ことは上手く転べば最高の表現として人々に希望や喜びを与える薬となるのだが、悪く用いればそれは毒になるのだ。そしてそれを毒として利用したのが、皮肉なことにナチスなのだ。ナチスの洗練された軍服が当時の人々をナチスに傾倒させるためのブランディングであったことはよく聞くところである。(今なおナチスの軍服を彷彿させるデザインに対する拒否反応、タブー視はその証左であろう。)

 「真善美」という言葉があるが、人が何か意思決定をする時(物を買うという小さな決定も含めて)、論理的な判断(=真)、倫理的な判断(=善)、審美的な判断(=美)のうち、実はそれほど論理的、倫理的な判断はしていない。様々なメーカーがパッケージデザインに力を入れるように、割と感覚的に「何となく良さそう」で人は選択する。SNSが普及したことでその影響力は変化してきているが、それでもコマーシャル、それに代わる口コミも含め、感覚的に「信じたいものを”正しい”と信じる」。もちろん人それぞれにジャッジの基準は違うので、論理的判断をする人もいるだろうし、倫理的な要素を重視する人もいるだろう。怖いのはそうであっても人は時に感覚的な判断をしがちで「カッコよさ」を正しいものとして信じやすく、それをファシズムが利用した歴史があるということだ。

 シッキンのパフォーマンスをナチスに結び付ける気は毛頭なく、目指すべき方向は全くもって違う。(こういう余計な結びつけをする奴がいるかもしれないから、スタッフ陣もこうした作品の発表に躊躇したのだろう。申し訳ない。)この話はだいぶ本筋からは逸れているのだが、わざわざこの話を出したのは、次の事を言いたいからだ。
 シッキンのパフォーマンスを見て「カッコいい」と思えるからこそ、このチャップリンのメッセージが強く、美しく、希望をもって響いてくる。カッコいいから映像を最後まで見ていられる。かつてのBlack Lives Matter運動でインスタグラムに真っ黒な画像を投稿する表現とは異なり、私の胸を打った。だけどこの映像を安易に「カッコいい」で終わらせない方がいい。カッコよさはあくまでもメッセージを伝えるための手段であり、この作品の本質的価値ではない。「カッコよさ」という劇薬を自覚した上で見なければ、いつ私たちは再び悪夢の中に身を沈めることになるか分からない。(古田新太は表現者の一人として、劇薬としてのカッコよさを自覚した上での発言だと思う。それを受け手側の私が額面通りに受け取ると危険だという意味で、私は引っかかったのだと思う) 


 この動画を見て感動した人は、できればその「カッコよさ」がどこに起因するものなのかを自分の中で掘り下げていってほしい。私が思ったカッコよさは、これまでに述べてきた通りのことだが、また違う受け取り方をした人もいるだろう。それぞれがそれぞれにそのカッコよさ、この作品の意味に思い至った時、初めてこの作品の価値は生まれ、この作品を見た私たちにとっての財産になるのではないだろうか。

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2021年5月4日。
日がな一日、この作品に思いを巡らす。苦悩した末に映像を公開した彼らの勇気に応えたいと思ったが、上手く伝えられたどうか自信はなく、多くの事を取りこぼしているようにも思う。ただそれでも一度言葉にしておくべきだと思った。

※この記事は2021年にnoteで公開した記事をここでも再掲しています。

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