野村幻雪追悼公演@国立能楽堂

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2022年8月18日、国立能楽堂で「野村幻雪(四郎改)追悼公演」が開催された。私は生前の四郎先生(「四郎」というお名前での活動が長いため、また私自身親しみと敬意の気持ちを込めて、ここでは四郎先生と呼ばせていただく)の素人向けの稽古で謡を数年ばかり習っていた。

稽古中の四郎先生は優しい時もあれば厳しい時もあり、オンチな私にとってはちょっと怖い時もあったけど、稽古終わりに何人かの生徒と一緒に飲みに行った時は、いつも芝居や師であった観世寿夫氏の話、昔の思い出深い公演の話など、和やかな笑顔と共に味わいのある話をしてくれていた。(私の知識が足りず、多分すごい話もたくさんしてくれていたのに…)

演出家で生前先生とも交流のあった笠井賢一氏が主宰となり1周忌の追悼公演が国立能楽堂で開催された。

プログラム

会場にて。

今回の追悼公演の内容は下記の通り。

琵琶『祇園精舎』「平家物語」巻一より
朗読『花を奉る』石牟礼道子詩
地唄舞『善知鳥(うとう)』
語りと舞『いのちのみなもとへ―花の山姥』
琵琶秘曲『啄木』『楊真操』
新作能舞(映像)『三酔人夢中酔吟』
インタビュー映像・仕舞『猩々』
新作能舞『空と海と光―空海の能』

能の追悼公演とは思えない程、多彩なジャンルが揃った舞台。その中でも特に強く印象に残った琵琶とラストの新作能について語りたい。

岩佐鶴丈の『祇園精舎』・・・一瞬で『平家物語』の世界に引き込む語り

この日のプログラムの最初を飾るのが、琵琶演奏家・岩佐鶴丈による『祇園精舎』。これは有名すぎる冒頭の一節を琵琶の演奏と共に聞くのだ。小中高の歴史の授業で習った「平家物語といえば琵琶法師」と一問一答のように覚えたことでしょう。古典の授業で暗唱した人もいるでしょう。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し
猛き者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ

『平家物語』巻一

これを実際の琵琶演奏共に聞くことができるなんて何ということだろう。そしてその実演が想像のはるか上のものだった。

能舞台の中央に一人、正座してその手に琵琶一つ。よくイメージする横向きに持つのではなく、垂直に立てて弾くのは琵琶にも大きさのちがいなどがあるからだろうか。大きな撥でかき鳴らす「ベベンッ」と鋭く重い一音で、一気に世界が変わる。

そして有名すぎる出だし「祇園精舎の鐘の声…」と語りの声が響いた時、もう自分が1000年という時間をひとっとびして、平安の世、猛者たちが戦によって泡の如く消えゆく合戦の無常の世界へと入り込んでしまったのを感じた。

古典の授業でとにかく覚えたあの一節、もう機械的に口から出る呪文のようにもなったあの言葉が、ようやく「意味」を持った瞬間で、太い声で腹の底に響くような語り、そして言葉と言葉の間も「続きが聞きたい!」って思わせる絶妙な間合いで、そりゃこんな風な語りで海の泡(あぶく)となった平家一門の没落してゆく物語なんて聞きた過ぎる…。そりゃ流行るわ。

琵琶秘曲『啄木』『楊真操』

琵琶演奏は後半に、琵琶の三秘曲の内の2曲『啄木(たくぼく)』『楊真操(ようしんそう)』も演奏された。この2曲は語りの無いいわばインストゥルメンタルな曲。

公演プログラムの解説によると、三秘曲とは、838年に遣唐使の藤原貞敏が唐の廉承武から伝授されたという曲で、あとの1曲は『流泉(りゅうせん)』。あまりに秘曲とされてきたために一旦は途絶えてしまったようで、平安時代末期に、藤原師長が楽譜を書き起こし、それによってふっ曲されたとのこと。

『啄木』はキツツキの別名ということから、琵琶のボディの部分を撥でコンコン鳴らしてキツツキが木を突く音を表現するのが面白い。琵琶って厳かに弾くイメージがあるから、現代のギターみたいに割と自由に演奏してたんだなと思うと面白い。曲全体は『平家物語』のような重く響くような曲調ではなく、優雅で可愛らしい雰囲気の曲だった。

『楊真操』は、あの世界三大美人の一人とされる楊貴妃の作曲と伝わるようだ。玄宗皇帝に鞨鼓を打たせ楊貴妃が弾いたと言われている。解説を読んだ時には、さぞ優雅できれいな曲なのだろうかと想像したら、『啄木』よりもなんとも男性的な雰囲気の曲だったのは意外だった。

新作能舞『空と海と光―空海の能』

四郎先生が生前、空海を主題とした能をしたいという思いを持っており、その舞台を今年の3月に行う予定でいたが、志半ばで旅立たれてしまった。今回はその先生の思いを形にするべく、生前に地頭(地謡というコーラス隊の隊長)を依頼したいと思っていた梅若桜雪師が節付と地頭を担当し、シテ(能の世界における主役)を観世銕之丞師が勤めた。

空海の「高野山万燈万華会の願文」にある「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きん」を主題とし、仏教の悟りの世界と能の幽玄の世界が結び付く。

本公演のラストでメインである本作品が、本当に素晴らしかった。自分でも驚くほど1分1秒たりとも気が抜けることなく見入ってしまった。ひとえにシテの空海役を勤めた銕之丞師の舞の深さたるものだが、それを一層増幅させているのが「面(おもて)」(能の世界では能面は「おもて」と言う)。とにかく面が美しかった。スッキリと切れ長の目で、あんなに涼やか(冷ややかとも言えようか)な目の面はあんまり見たことがないきがするのだが、ゾッとするほど美しかった。艶めかしいと言っても過言ではない。

「空海‥‥あなた、そんな美坊主だったのか…」

悟るどころか煩悩が掻き立つくらいの美しさで、目が合った瞬間凍るんじゃないかという位の涼やかな眼差しで見下されるような感覚になるかと思えば、祈りの舞をする中でふとした瞬間に微笑んだようにも思える時もあり、そしてそれらが混じり合い終盤は神々しくもあり…。よく聞く「能面は無表情ではなく、舞台(舞)によって表情が変わる」ということをまざまざと見せつけられた感覚だった。

この作品は来年5月6日に高野山金剛峯寺の壇上伽藍金堂にて上演されるとのことだが、この作品が高野山という最高の舞台で演じられるなんて、本当に空海が現れてしまうんじゃないだろうか‥‥。これはもうすべての予定をかなぐり捨ててでも行かねばならない。

さいごに

右から舞台写真集、追善文集、公演パンフレット。これらが配布されるなんて凄すぎる

配布された先生の舞台写真集を見れば、私が知っている先生は本当にラスト数ページでしかなく、私が生まれるよりも前からずっと舞台に立ち続け、能に全てを捧げてきた方だったのだとしみじみと感じた。それでも、先生の長い人生の最後の一瞬だったとはいえ、そのわずかな時間でも先生と出会い、能を味わう時間があったことは私の人生をどれほど豊かにしてくれただろう。そして先生が蒔いてくださった種を、これからも大切にして育てていきたいと思った。

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