『空夢』レビュー(考察になってない考察)

舞台・映画

劇団papercruftの10回公演にOguriさんが出演するということで『空夢』を観劇。

ふんわりとした心地よい響きのタイトルだが、その意味は「見もしないのに、見たように作り上げて人に話す夢。また、正夢と違って、現実には夢で見たようにならなかった夢」とある。

事前のチラシやHPに掲載されているあらすじは下記の通り。

これは、そんな過去の話。

同級生の街。
同級生みんな、この街で育ちました。ずっと、今も。
そして同級生の私達二人は、これから夫婦になるのです。
ただそんなある日、同級生が一人、多かったことに、誰かが気づいたのです。
いつ誰が、どうして多かったのかは、誰にも分かりません。
ただでもだから、一人多いので一人減らさないといけないのです。

この危機を共々、乗り越えよう。
そんな気持ちでは、いた日々でした。

公式HPより引用

不条理劇を得意としているようで、どんな世界が繰り広げられるのか、怖いもの見たさの期待を募らせて、いざ「すみだパークシアター倉」へ。

感想

今回は初日の4/26と、5/4の2回見た。初日の率直な感想は、「“面白かった”と諸手を挙げて褒められない、かといって“つまらなかった”と捨てきることもできない」というものだった。その感想こそ、劇団を主宰し、脚本・演出を務める海路(みろ)氏の術中にはまった証拠にも思えるが、一方でそう言いたくない自分もいる。2回目の観劇までの数日で、どの点が面白く、どこがイマイチだったのか、自分の中である程度整理された。そして私なりの解釈(仮説)を持って2回目の観劇に臨んだ。そうすると、腑に落ちる部分も出てきたが、やはり結局消化不良で終わった点もあった。

消化不良な点・がっかりした点

面白かった点や私の解釈は後述するとして、先に消化不良となった点や腑に落ちなかった点を挙げる。ネガティブな意見で、理解不足や記憶違いの箇所もあるかもしれないが、ご了承いただきたい。

1「同級生」の定義への抵抗感

上記のあらすじを読むと、私たちが普段使う意味での「同級生」と思いきや、実は「同級生」は「人間」と対概念で用いられる。私たち人間にとっての「宇宙人」的な意味合い、生物上のカテゴリーとして「同級生」という単語が使われる。これは、事前に公開したあらすじで敢えてミスリードしておいて、「実はこういうことでした」という演出ではあるのだが、これがかえって拍子抜けした原因になった。

普通の意味での「同級生」のコミュニティの中で、どうやって「いつの間にか増える/増えたら消す」という設定を成立させるのか、そこでどういう物語が展開されるのかという期待が多かった分、「“同級生”という生物」となると、「“同級生”という言葉じゃなくても良いじゃん」と感じ、やや興醒めした。

数多ある単語の中でなぜ「同級生」を選んだかは、物語の最後にほのめかされる「同級生の街」は実は「行方不明になった(あるいは誘拐された?)人間の子が集まった共同体(集落)」という前提に立てば成立するのだが、その種明かしがラストまでないので、観ている間ずっと「人間」と「同級生」が対概念で語られる違和感が強すぎて、入り込めなかった。

2、性行為月3回までのルールの意味

「同級生の街」のルール「性行為は月3回まで」がしばしば出てくる。おそらく「ひとりっ子政策」や旧優生保護法など、「権力が個人の性(行為)をコントロールする社会」の暗喩であろう。「同級生の街」がいかにデストピアであるかを示すための要素なのだが、それが単にデストピア要素の一例にしかなっておらず、主人公カップルが口にする割には、そのルールが本筋に影響してこない。それゆえに「エログロナンセンス要素を入れただけ」に陥ってしまった感が否めない。

せめて主人公の男が「同級生じゃない」とターゲットにされたきっかけとして、この禁を破ったから(性行為を月3回以上するのは「人間」の可能性があるから)とするなど、劇中で何度も登場するならその程度には本筋に絡めるべきだったのではないだろうか。

3、なぜキスをしないのか

主人公カップルの穏やかで幸せな時間として描く海辺のシーンで「チューして」と甘える彼女に、男はキスはせず抱きしめて「いい家庭を築こう」と誓い合う。どんどん不穏になっていく展開の中でわずかな「2人の幸せな時間」を描くシーンだ。

性行為は(月3ルールもあるので)舞台でそのシーンを描く必要はないのだが、この場面でキスをしない理由が見当たらないため、物語の要であるはずのこの2人のカップルの愛自体も全体的にフワフワしてしまった感じがした。劇中の中で「要」となる重さがないまま、表面的な不穏感(不快感)が終始続く。一方で、2人の愛情表現が「性行為をする/しない」で測られるのは見ていて気分が悪かったし、この主人公カップルへの感情移入を阻む原因になった。

4、演出の意図が分からなかった2点

どうしても演出の意図が理解できなかったのは次の2点。

①電車のシーンの異様な長さ
②ラストの家政婦のふてぶてしい態度

①は電車ごっこのように演者の2人がロープで電車を作り、その間に電車に乗って移動する役柄の人が入って、電車移動をするシーンを表す。そのくだりが、「先生(=同級生の街の支配者)」の家に行く時、クライマックスとなる同窓会(=同級生を1人減らすシーン)に行く時などで出てくるのだが、やけに長い。何かの比喩なのかと思うほどに長いのだが、その意味が結局分からず、本当にただ電車移動の示すシーンにしか受け取れなかった。もし単に電車移動を示すだけならあれだけの時間を割く必要があったのだろうか?

②も「海で遭難した女性(=「同級生の街」の主人公カップルの彼女)は実は行方不明だった子でした」という話を、富裕層の家族にしたが信じてもらえなかった時に、家政夫が不服そうな態度を示したのだが、その意図が分からないまま終わった。

5、なぜ同級生を減らさないといけないのか

これを言ってしまうと元も子もないのだが、「同級生を減らす理由が分からない/減らす人物にこだわりがない」という設定が、作品全体を緩くさせている気がした。物語の肝心なところを「よくわからないけどそういう世界だから」「何となく」で進み過ぎている気がした。不条理な世界の中にも一定の道理がないと何でもありになりすぎてしまい、締りない。見る人の関心を煙に巻きすぎて、かえって興味を失せさせることになったように思う。

「先生」の言動を踏まえると、徹底的に”人間(同級生でない者)”排除をしようとしている訳でもないし、(行方不明の子が集まった集落と仮定して)排除する理由が見当たらない。仮に姥捨て山のような「口減らし」的なことの比喩だとしたら、もう少しその意図が分かる演出がないと意味が分からない。

またこれに関連して、「同級生」たちが「増えた同級生を減らす」ということにどれだけ関与しているかが、劇の前半と後半で矛盾しているように感じた。前半では「増えた同級生を減らす」という政策は、同級生調査団に一任されており、自分たちは何一つ関与せず、何も知らない者のように描かれているが、クライマックスの同窓会で「同級生」を減らす時、その場に集った同級生たちは当然のように「かごめかごめ」をして全員で増えた同級生を消す(殺す)。

主人公カップルが前半で何も知らない無知(無垢)な住人のようにふるまっていたのに、「めっちゃ殺し方知ってんじゃん!」と驚いた。増えた同級生を減らす術を知っており、その手口に当然のように加担している。遅れて会場にやって来た資本家に調査団長が「今囲むとこまでやりました」と言い、そこから輪に加わる様子を見れば、彼らはこれまでもその行為に手を染めていたと考えられる。物語の前半の態度と後半の態度に一貫性の無さを感じた。

無理やり「減らす行為自体は住人も関与するけど、減らす理由は調査団と先生しか知らない」という設定と理解することできなくはないが、結局のところ「同級生の街」という設定がフワついている印象はぬぐえない。

面白かった点

1、「同級生の街」と人間の世界のパラレルな関係

上記のような理由と感想で、初日はどう感想を述べてよいものかと悩んだ。色々と考えを巡らす中で、1つの疑問からある仮説に至った。その疑問は、「プロローグとエピローグに出てくる家族は何の意味があるのか」ということだ。

とある裕福な家庭(父、母、娘、息子の四人家族)の家で働き始めた家政夫が、数日前にニュースになった海で意識不明で重体となった女性について話し始める。その家政夫曰く、女性が目覚めて言うには「私は人間じゃない」と言うらしい。彼女が語り出す過去の話とは…ということで、「同級生の街」の物語が始まる。

この導入とラストの「実は海で発見された女性は行方不明の子でした」という結論を言うために設定されたこの4人家族。この設定が最初陳腐に感じられた。というのも「実は行方不明の子でした」というオチを家政夫が言って終わる展開が、いわゆる「夢オチ」のような「安易などんでん返し」という印象を持ったからだ。それならその結論(解釈)を物語の展開で理解させるべきでは?家政夫が最後に言って分からせるってめちゃくちゃ安易では?と思ったのだ。

たとえばプロローグはベッドの上で女性(坂之上茜)が目覚めて、「私は人間じゃない!!私は…同級生です!!」と訳の分からないことを喚くシーンで始まり、それがクライマックスで「なるほど冒頭の台詞はこういうことだったのか」と回収される方がスッキリする。ただ、おそらく私が思いつく程度のこんな演出など、海路氏は当然頭にあった(もしくは頭に浮かぶまでもなく選択から外して)現状の演出にしたはずで、その理由を探した。そうしてあることに気づいた。

同級生の街」と人間の世界の人間関係はパラレルになっているのではないか」と。

本作では、「同級生の街」の人物と「人間の世界」の人物を1人が2役勤めている。その割り振りを見ると、コミュニティにおける立場や性格、関係性が一致しているのだ。

・先生=お父さん(コミュニティの長)
・子持ちの同級生=お母さん(母親、長と肉体関係をもつ者)
・同級生調査団=娘(先生・父に追従する、高圧的)
・芸術家=息子(外部の思想、嗜好を受け入れる)
・資本家=家政夫(異なる世界の情報をもたらす者)

先生と子持ちの同級生の関係は「マッサージをして割のいいお小遣いがもらえる」という台詞から、おそらく性的な関係があると考えられる。2回目の観劇では本当にパラレルと見なして良いかという観点で注意してプロローグを見たが、まず息子が登場し、次に父と娘(同級生の世界での先生と調査団長)が一緒に登場する。人間世界でも行動を共にしている。家政夫の作るまずい料理は、同級生の街における人間賛美(キリスト信仰)のようなもので、受け入れがたい思考(嗜好)の象徴と考えれば、資本家と芸術家の関係と、料理の味を受け入れようとする息子の態度もシンクロしていると言える。そして、まずい料理を認める息子を猛烈にディスった母親は、同級生の街で芸術家に増えた同級生の濡れ衣を着せられ、遂には消されるという仕返しに遭う。怖っ!!!

そう考えると、当初単なる「夢オチ」と捉えたエンディングも、そもそも「過去の話」とはいつを指すのか、色々解釈できる。単に行方不明の女の過去(=行方不明中の物語)ではなく、「同級生の街」全体が、近代化される人間社会の前の世界(=前近代的なムラ社会)という意味での「過去」と捉えることもできるのだ。

ちなみにそうなると、主人公カップルのうち、坂之上茜演じる「女」は人間世界で「行方不明の子」として登場するが、Oguri演じる「男」は人間世界に登場しない。人間世界とパラレルになるはずと仮定すると、人間世界に登場しない「男」は「同級生の街」においても存在してはいけないのでは?と思えてしまう。つまりいつの間にか増えた同級生は…と考えが飛躍する。

劇中で「同級生発見レーダー」は、カップルの2人の間で鳴った。それ故にカップルは互いに相手を「増えた同級生」として罵り合うのだが、もしかしたら女は「人間」という意味で、男は「人間でもない者」という意味でどちらも「同級生」ではないのかもしれない。ちなみに「女」は「同級生の街」において「人間」という解釈は、「人間=究極の自己犠牲」と定義されており、男の身代わりに自分自身が増えた同級生と主張した点からも、彼女は「人間」なのだ。

2、「資料なんてないよ、資料なんだから」

劇中の言葉で「なんて面白い台詞なんだ!」と思ったのが、主人公カップルの女がなぜ自分の婚約者が増えた同級生として疑われているのか、その証拠を先生に求めた時に言う先生の台詞がこの「資料なんてないよ、資料なんだから」という台詞だ。

現代の汚職事件などで資料を平気で改ざん、破棄する政治家への皮肉として秀逸だ。こういう台詞が織り交ぜられていることからも、「同級生の街」は人間社会の縮図として描かれている。

3、海を隔てて異界とつながる

かつて西方の海のはるか先に浄土があると信じられていたり、『浦島太郎』の竜宮城のように、海が異界の世界へとつながる入口としてしばしば用いられることを踏まえれば、「泳げない女が入水自殺を図る→人間の世界に戻る」という設定は良いと思った。ありきたりと言えばそれまでだが。だったら女が男のために自己犠牲を払うという点から、いっそのこと、人魚姫の物語になぞらえても良かったのではとも思ったり。

と、散々まとまり切らない考え(もしかしたら大きくピントのずれた感想)がグルグルと駆け巡る中、開幕前のインタビュー記事を今更ながら読んでみた。(舞台はなるべく先入観なく観たいので事前のインタビューはあまり読みたくなかったので読んでいなかった)

【小栗基裕×海路】なんだか奇妙な舞台。でも現代社会に通じる“不条理劇”で伝えたいこと【s**t kingz連載「DIGEST」第16回】 | with digital(講談社)
ダンサー史上初の日本武道館ライブは通過点に過ぎず、今年も多方面で活躍しているs**tkingzの4人。ソロパフォーマンスで即興ダンスに力を入れてきたOguri=小栗基裕は、磨き上げた表現力と瞬発力をソロ活動でも発揮している。4月26日に開幕する主演舞台『空夢』は、10代の頃から才能を高く評価されてき

すると、キーワードは「子ども」とあるではないか。これは劇中一度もこちらに顔を向けなかった子供(演じるのはOguri)のことか。確かに不思議な存在ではあったが物語に直接的な関与はなかったため深く捉えてなかったが、あの子が本当の「いつの間にか増えた同級生」ということか(つまりは人間世界においては、新たに「行方不明になった子」?)。

勝手に紛れ込んで来て、それまでいた「同級生」がところてん方式でその代わりに消される(=人間世界に戻る?)。でも行方不明の女が助かった時に子供は死んだ状態で見つかっている訳だから「同級生の街」で死んでしまうと人間世界にも戻れず、人間世界に戻るには「同級生の街」を海を介して戻らなければいけないということなのだろうか。

ダラダラと自分の中の着地点を取り留めもなく書き綴ったが、結局「これ」という落としどころがないまま終わってしまいそうだ。それでも良いのかもしれない。そもそも真剣に考えも答えなど出ることもないのかもしれない。「空夢」なのだから。

最後に

「かごめかごめ」で同級生全員で1人の人間(同級生)を消すというのは、ムラ社会における運命共同体(あるいは人柱)の象徴として、増えたら消す」というルールは「姥捨て山」的な口減らしとしての象徴として、「先生」が支配する社会は時折ニュースになる「ハーレム(一夫多妻制の生活をする男女)」、と1つ1つは面白い素材ばかりなので確かにアレコレと考えを巡らせることができるという点では面白い。ただ、やはり要素が散りばめすぎていて、1つの作品の中でまとまり切れなかった感はどうしてもある。(私が見当違いの見方をしているだけなのかもだが。。。)

ちなみに、それぞれの役者の皆さんの演技は、この不穏な世界の、相手の尊厳を少しずつ削るような「嫌な奴」を見事にリアルに演じていた。だからこそ観劇中は「この世界早く終わってくれー」と叫びたくなりそうだった。終始続く不協和音のような会話の応酬は、演出家の海路氏、そして演者の狙い通りであるだろうから、その点ではまさに彼らの演技は素晴らしく、そして彼らの思うつぼのように、心に鉛のような不快感が蓄積されていった。

だからこそ、舞台としてその蓄積された不快感が解消されるような「カタルシス」が欲しかった。もしくは、主人公カップルへの同情(感情移入)ができるようにするとか、もう少し”焦点”となる部分が欲しかった。

主演のOguriさんの演技は、それまでの100%の力が入った演技ではなく、肩の力が抜けた状態で「普通の人」だった。「普通の人」を演じるのが一番難しいと思う。これまで彼の演技には「役を上から着ている」イメージだったのが、「役が内側からにじみ出ている」感覚だった。それだけ内面からの演技になっていたと感じた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました