【レビュー】s**t kingz『HELLO ROOMIES!!!』@新国立劇場(後編)

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前編では、主にそれぞれのソロパートと舞台演出について感想を述べた。後編では、物語の核心部分となる後半をメインに語りたいと思う。

前編の記事はこちら。

「無言芝居…なのか?」ー「ダンス」だけにこだわるのをやめた?

少し野暮なことを言えば、実は初日を観終わった後、ふと「これは無言芝居…なのか?」とは思った。確かに4人は一切台詞は発していないが、劇中の曲の大半は日本語だったので、私の体感としては「言葉に溢れていた」感覚だった。例えばkazukiさんのソロなど、「恋心」というふわっとしたイメージの範疇ではなく、「店長がアルバイトに手を出すなんて…」という具体的な歌詞で、登場人物本人が発するかアーティストが発するかの違いなだけで、「これはもうほぼセリフでは?」と思わないでもない。

気になって前回の舞台『the Library』を見直してみたが、この時は歌詞がないか、あっても英語だったので、前回との違いは明らかだ。『the Library』のイメージで「無言芝居」を理解していたので、当初引っ掛かりを感じた。

しかし、『ハロルミ』のチラシを見返せば「超踊る喜劇(コメディ)」とは銘打っても、「無言芝居」とは書いていない(本人たちがインタビューなどで、これまでの舞台も含めて説明する際に使うことはあるが)。

「音楽が日本語に溢れていた(歌詞で劇中の設定を説明していた)」からと言って『ハロルミ』の舞台にケチをつけようというのではない。ただ「無言(言葉を意識させない)」ことは、いわば「表現をダンスにこだわる」ことで、その「ダンスだけにこだわる」ということを今回少し手放したように思えた。

それは、見るバム『FLYING FIRST PENGUIN』で同時代のアーティストと一緒に曲からプロデュースしてダンス楽曲を作るという手法を経験した彼らにとって、この形が自然な流れであったからかもしれない。あるいは人形のA子が主人公になり、それまでの「男4人」の世界だったのがさらに広がるために、ある程度日本語の歌詞での説明が不可欠だったからかもしれない。

ただ、2020年から2022年の間に、ドラマや映画に出演するなど俳優業もスタートさせたり、『My friend Jekill』や『お前、だれ』で言葉とダンスの掛け合い、それによって生まれる緊張と緩和を経験した中で、「ダンス(音楽)」と「セリフ(言葉)」のボーダーにあまり意味がなくなってきたのではないだろうか。

前編の最後でも触れたが、今回の舞台は「ダンスのための舞台」というより「舞台のためのダンス」という関係のように思えたので、そうした本人たちも意識してか無意識かわからないが、その舞台とダンスの主従関係が逆転したという違いもあるだろう。

なので、私が今『ハロルミ』が「無言芝居か否か」と疑問に思うことも意味はない。重要なことは、少なくともこれが今のシッキン、2020年時点ではなく、2022年のシッキンが持ちうるクリエイティヴィティを総動員させた結実であるということで、その言葉とダンスの掛け合いは素晴らしい相乗効果を生んでいた。

4人が「主人公にならなかった」ことの意義ーー『bound feat. butaji』

私は『ハロルミ』の意義は「A子が主人公」であることより、「シッキン4人が主人公にならなかった」ことだと言いたい。もちろん人形(A子)という命の無いものを、まるで生きているかのように動かし躍らせ、またA子と一緒に踊ったりなど、その表現力の高さに圧倒された。

しかし私がそれ以上に感銘を受けたのは、彼らが「主人公」のポジションから離れたことで、シッキンとして新しい表現が生まれた点だった。それを一番強く感じたのは、物語のクライマックス。落ちてきた幕を使ってのパフォーマンス(楽曲『bound feat. butaji』)だ。このシーンで『ハロルミ』の作品としての奥行きがぐっと深まったように思う。

自分の望む映画を作ることができないモヤモヤを抱えたまま、周囲の状況はどんどん別の方向に進んでいき、溜まっていく心のゴミ…そして遂にそのゴミをせき止めていたものが決壊し(楽曲『SPLASH feat. Reichi』)、A子はプッツリと切れて舞台中央で倒れてしまう(舞台ではA子を宙吊り状態にすることでモヤモヤを抱えた状態を表し、その吊った糸が切れてA子が床に落ちることで、彼女の張りつめていた心の糸が切れたことを表す)。

オープニングの『TLASHTALK』のダンス以降、A子の行動に則して動いていた「ゴミ(=シッキン)」たちが、A子から離れて4人だけで動くのは『SPLASH』『bound』だ(その後の『炎』はA子が立ち直る心に則して動いているのでここでは含まず)。

落ちた幕の内側に4人が入り込み、中から幕を動かして、動けなくなったA子に対して”ゴミ”側からの視点でA子の傷ついた心や苦しみや虚しさ、藻掻き続けてきた辛さを表現し、後半では疲れ切った彼女を救い出そうと彼女のために、彼女に向けて踊る。この一種の心象風景としてのシーンで、彼らは「背景」として動く。4人全員が物語の「背景」となれるのは「A子」という確固たる主人公が据えてあるからできることだと思う。

これには、『独裁者』のパフォーマンスの経験も大きかったのではないだろうかと想像する。チャップリンの演説に合わせて踊るパフォーマンスでは、「世界」という最大級のスケールを、その中で苦しみ、もがき、立ち上がる民衆というテーマを、4人だけで表現していた。苦しみを苦しみとして表現することの「重さ」に向き合い表現するからこそ、対極にある笑い(重さに対応させるなら「軽み」)が活きてくるし、救いになる。

※『独裁者』(「The Great Dictator – Final Speech」)のダンスの感想はこちら。

当初は2020年に予定していた舞台だし、実際の時系列は知る由もないのだが、少なくとも『bound』に関しては、『独裁者』のパフォーマンスと似た雰囲気(アプローチ)を感じた。

余談だが、この絶望的な状況になったA子に対して、「ゴミたち」4人が安易に励ますようなことをしなくて良かったなって思った。絶望的になっている時に「頑張るしかないよ!(頑張ろうよ!)」という正論は、役に立たないどころか相手の地雷の上でダンスをするようなものだ。(観劇中は歌詞を細かく聞き取れなかったが、配信でじっくり聞いた際に「大丈夫なんて言えないよ」というフレーズが入っていることに気づき、やっぱりそういう思いでこのシーンは作られているんだと分かりさらに感動した)

ゴミたちはA子の心情とリンクしているから当然と言えば当然なのだが、『bound』で、落ちる時には共に落ちて、その中で這いながらゴミの中に沈んだA子を探し、4人がA子のもとに向かう(A子を救い出そうとする)。そしてA子の周りをぐるりと囲んだ布の中で外を向いて踊る4人が、A子を守ろうとしている感じがして胸が締め付けられる。

よもつ
よもつ

配信では、カメラアングルの効果もあって、より神秘的なシーンとなっていた。ラスト4人が向かい合って踊る箇所は、何かの儀式のような厳かささえ感じた。

そしてその後に続く『炎』で、A子が自分で体を起こして気持ちを立て直そうとするのをゆっくり時間をかけて寄り添い続ける。この一連の流れが素晴らしかった。

マルチエンディングーー自分事としてのA子の選択

今回の舞台はマルチエンディングで、物語の結末を観客が選択するようになっている。

赤パターン…バイトを続けながら自分の撮りたい映画を撮る
青パターン…世間(プロデューサー)から求められる映画を撮る

最初は「2倍の準備をしてるのが凄い」「その場で結末を決めてすぐ準備するスタッフもメンバーも凄い」と”飛び道具”的に捉えていたが、9月に初日と千穐楽の2回の観劇で両方のパターンを見た後、このマルチエンディングの真の価値に気づいた。

それまで観客はA子に感情移入しても、あくまでも他人事(傍観者)として観ていた。しかし、この選択を委ねられた時にハッとする。「自分ならどちらを選ぶか」あるいは「自分ならこっちを選ぶから、もう一方の道を進むA子が見たい」など、多かれ少なかれ観客の“自分”が入り込む。そして、その結果は(自分の望んだ方が選ばれたにせよ選ばれなかったにせよ)他人事ではなくなり、自分が選んだ人生(あるいは選んだけど叶わなかった人生)として受け止めることになる。

さらにこの手法が素晴らしいのは、A子の人生を観客に自分事として捉えさせた上で、本当のエンディングはどちらも同じである点だ。

赤と青、どちらの映画を撮るかの選択が決まると、それぞれの映画の内容をイメージしたパフォーマンスが披露される。しかし物語はそこで終わらない。その後、家に帰ったA子は、また1つ心のゴミが増える。その内容は赤パターン、青パターンで異なるが、「(心の)ゴミが増える」ことは同じ。ただし、最後はA子がそのゴミを抱きしめる。そしてシッキンが『心躍らせて』を踊るのが真のエンディングだ。

どちらの道を選んでも何かしら「心のゴミ」は生まれるのだ。そしてその「ゴミ」を抱きしめながら生きていくという意味では、どちらも同じなのだ。

2つ目のパターンを見た時、この作品のメッセージが心に染みるように入ってきた。そして『心躍らせて』のラストのサビでNOPPOさんが笑顔で踊っているのを見て、「何を選んだって、何を選ばなくたって心のゴミは溜まっていくけど、だからこそ、あなたの人生はそれでいい。あなたはそれでいい」と、モヤモヤを抱える状態を含めて、全肯定してくれたような心地がした。

『心躍らせて』の歌詞自体はそれほど明るいものではないと思う。実際、劇の中盤でキラキラしている友人(マウントル子)と比べて落ち込むA子のBGMとして流れている時は寂しく聞こえるが、ラストのこのシーンでは、むしろ穏やかで優しく包み込んでくれるような温かさを感じた。

自分で結末を選ぶという過程を経ているからこそ、最後に聞く『心躍らせて』は、「誰か」の歌ではなく、見る人それぞれに「自分の歌」と感じさせるのではないだろうか。そして一層A子のラストの姿に自分を重ねることができる。

幸せとは何か特定の物や事を得ているかどうかではない、自分の人生をどれだけ肯定できるかだと、『ハロルミ』は、シッキンは伝えてくれる。言葉ではなく踊りながら。

まとめ

今回舞台を3回見て、初回は「かっこいいーー!!ダンスが凄かった!!面白かった!!!」と、シッキンの舞台を観ることができた喜びが大きかった。2回目で両方のA子の人生を見届けて、じっくりとこの作品のメッセージを受け止めて、一人カフェで余韻に浸りながら泣いた。3回目は、終演後の「日本武道館での単独ライブ決定」の衝撃に半ば感想を持っていかれた(笑)

公演延期の憂き目にあいながらも、その間に蓄えた経験をフル動員させていることが随所に感じられる。ヒストリー動画の中で2020年にやろうとしたことをやっている訳ではないという彼らの言葉が実によくわかる。

思い起こせば、コロナ禍で世界が不安に襲われた時も、彼らは「踊れない」と嘆くよりも早くzoomの4分割画面で踊った。そしてそれが『NAMAHOSHOW』となり世界中に届いた。前に進み続ける彼らが、延期となったことでできた時間の中でさらに「楽しく、面白く!」を追求した『HELLO ROOMIES!!!』、そのA子の人生を見届けることができた幸せを今かみしめている。

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