【レビュー】仕立て屋のサーカス@ルミネゼロ

舞台・映画

2022年12月16日、新宿のルミネゼロで上演された「仕立て屋のサーカス」に圧倒された。なんだかとてつもなく崇高なものを見たようでもあるし、それでいてちょっと妖しげ…。

そんな不思議な感覚を覚えた今回の公演。東京公演はすでに終わってしまったけど、来年には神奈川、京都でも公演があるとのことなので、少しでも今回見た感動と衝撃を残しておきたい。そして、来年このサーカスに出会う人がもっとたくさん増えればいいなという気持ちを込めて、記事を書こうと思う。

「仕立て屋のサーカス」とは

実に魅力的で、まるで絵本のタイトルような「仕立て屋のサーカス」とは、どんな公演なのか。

音楽家×裁縫師による音と布のサーカス。

演出家・音楽家「 曽我大穂 」主宰。
服飾家・スズキタカユキ、制作プロジェクトチームで構成されるサーカスのような舞台芸術グループ。 
これまでに何度か共演したのち、 その場で生み出される瞬間のエネルギーを大切にし、新たなグループ「circo de sastre(シルコ・デ・サストレ)=スペイン語で “仕立て屋のサーカス”」として2014年より活動を開始する。

公式HPより引用 

「仕立て屋のサーカス」は、音楽家の曽我大穂(そが・だいほ)、コントラバス奏者・ガンジー西垣 ( 二階堂敦)、ファッションデザイナーのスズキタカユキが軸となって、音楽、布を使ったパフォーマンスで夢のような舞台空間を作り上げる。

※ガンジー西垣 (二階堂敦)氏は、2022年3月29日(火) に肺炎のため逝去された。

「仕立て屋のサーカス」はこれまで国内だけでなく、スペインやフランスでも公演を行ってきた。決して演奏がメインのライブでもなく、全員が何かの役を演ずるような演劇でもない。各自がそれぞれの専門技術を駆使して、総合的に1つのパフォーマンスとなる。何か1つのジャンルに収めることはできず、「サーカス」としか言いようがない。

「サーカス」とは?

ここで一度立ち止まって「サーカス」の定義を押さえておきたい。

人間や動物による曲芸,軽業を主体とする興行。サーカスの語源は,ラテン語の「円,輪」に由来し,古代ローマの円形競技場で催された競馬や闘技がその起源であるといわれている。近代のサーカスは,1768年ロンドンの円形劇場で,P.アストリーが走る馬の上に立って曲技を行なったのをはじめ,道化師や動物の芸,パントマイムなどを加えて確立された。その後演目も多様化し,空中ぶらんこ,綱渡り,オートバイなどの曲乗りなどが含まれ,大衆的な娯楽スペクタクルとして人気を得た。多くはテントや仮設小屋で巡業しながら演じられる。

コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「サーカス」より

この定義の中から「仕立て屋のサーカス」がライブでも演劇でもなく、「サーカス」であると言える3つの条件を挙げることができる。

①「曲芸」…「仕立て屋のサーカス」の場合、演者の”専門分野(スキル)”を見せるという解釈
②「輪」…円形のステージ、またコミュニティという意味での”輪”
③「旅」…巡業、旅へのイメージ

この3点については、後ほど本公演の感想の中で詳しく述べていく。

ライブでも演劇でもない、紛れもなく”サーカス”

ここからは実際に私が見た公演の感想を綴っていく。ちなみに本公演は、基本的に写真・動画撮影OK、SNSへの投稿OK(映り込み等への配慮は必要)。

幻想的な舞台空間

入場すると、まず目に飛び込むのは天井から垂れ下がる無数の白い布。不思議なことに、私はこの光景に、スペインのサグラダファミリアの内装を思い出した。

サグラダファミリア内部

サグラダファミリアの柱は樹木のような造形で、まるで森の中を歩いているような感覚になったことを覚えている。今回も天井からゆったりと垂れる幾筋もの布から、同じような感覚を覚えた。

夜の森の中で集まってこれから何か秘密の催し、そうサーカスが始まる。そんな気分だ。

舞台の中央には様々な楽器とミシンが置いてあり、その周囲の床には円形状に布が敷き詰められている。布が敷いてある場所は床に座りながら鑑賞することができる贅沢なエリア。基本的には自由席なので、観客は適時好きなところに移動して観ることができる。

そうして時間となり、いよいよサーカスが始まる。

舞台に二人の男性が出てきたと思ったら、音楽家(曽我氏)はフルート(?)など演奏を始める。そして仕立て屋(スズキ氏)は布を切り、それらを音楽家の背中に取り付けていく。そうして音楽家の背中に取り付けた布を、もう一方の布の端を垂れ下がっていた布に括りつける。

この動画では、音楽家が布で括りつけられ、まるで抵抗するかのようである。暗闇の中、わずかな光の中に浮かび上がる音楽家の姿は、少し恐ろしくもあり、でも美しい。崇高とはこういう様をいうのだろうか。

そうして不思議な光景に目を奪われ、音楽に意識を向けていると、いつの間にか仕立て屋が、さらに別の布を音楽家の背中と天井から垂れる布とを結びつける。

「天使が生まれた。」

そう思った。音楽家の背中に仕立てられた大きな布が、天井から垂れる布に結ばれることで、背中に巨大な羽が生えたような姿になる。その姿はまさに”天使”。

まるでジョルジュ・ド・ラ・トゥールの世界!

余談だが、暗闇の中で大きな羽をもつ天使と、(偶然だが)歩き回る少女の姿が浮かび上がった時、その静謐な光景がジョルジュ・ド・ラ・トゥールが描く絵画世界そのものだと思って、ドキッとした。私はキリスト教絵画の中にでもいたのかと錯覚する。

①”曲芸”としてのパフォーマンス

例えばライブなら”音楽”、演劇なら”演技(芝居)”という、舞台の上に立つ演者は何か1つの共通する表現手法に則ってパフォーマンスを行うが、「仕立て屋のサーカス」の場合、演奏家は演奏をし続けるし、服飾家は終始、布を切ったりミシンで縫ったりして、造形を生み出していく。

それぞれが個別の専門領域の中で、各自のパフォーマンスをする。特に、布による造形は生まれては消え、また次の造形が生まれていく…その次から次へと目の前で繰り広げられる様子も、入れ替わり、立ち替わり、次々と芸が披露されているサーカスの感覚に近い。

それぞれの専門家が各自の領域の中にとどまりながら、全体は一つのショーとして成立する。不思議な感覚だ。そしてこれは休憩をはさんだ後半に、さらに顕著になる。

②「輪」…円形のステージ、またコミュニティという意味での”輪”

「サーカス」という言葉の語源にもなっている「輪」。大体サーカスの小屋は円形のイメージだが、サーカスの語源に、「輪」の意味が含まれていることは知らなかった。

その円形(「正面」が決まっていない)ステージが持つ効果とはどのようなものだろうか。

演者は360度取り囲まれ、全方位から”見世物”としてのまなざしを向けられる。古代のコロセウムや、スペインの闘牛場のような円形の建築物がそうであるように、観客の好奇、まなざしがいわば檻となって演者に注がれる。そんな一種の卑俗さ(暴力さ)を円形のステージは持っているように思う。

そしてサーカスもまた、円形の小屋の中で人々の好奇のまなざしを受ける。その期待に応えるように驚嘆するような技を披露するが、果たしてそれは「見せているのか」、それとも「見られているのか」。

しかし、「仕立て屋のサーカス」の舞台は、円の内側(ステージ)と外側(客席)が緩やかにつながっている。ステージの中(布が敷き詰められたエリア)で観客は座り込むことができる。先ほどのラ・トゥールの絵画のようだと言った写真がそうであるように、観客もまた、その外側にいる観客に「見られる」存在にもなる。

また、ステージの外側(椅子席)にいたとしても、天井から垂れる布は椅子席にも及んでおり、仕立て屋はどんどん客席の間を行き来して、フラッグをつけたりして、ステージの空間を拡張していく。

布で作られたフラッグは客席まで延び、「輪」が拡張していく

2022年のテーマ「分解」

(写真奥左から)藤原氏、曽我氏、(手前左から)大塚氏、スズキ氏。学者、演奏家、大工、服飾家・・・・バラバラな活動をする4人が集って1つのパフォーマンスが成り立つ、奇妙な光景。

今回の公演のテーマは「分解」。ということで私が見た16日の公演では、歴史学者・藤原辰史氏を迎えて、レクチャーパフォーマンスが行われた。

藤原氏が観客に「分解」について解説する傍らで、音楽家の曽我氏は積木を積んでは崩れ、崩れては積み上げるパフォーマンスを行う。そして、仕立て屋のスズキ氏は、今度は大工の大塚和哉氏と共に、布と木材を使って会場の設計を黙々として行く。

事前に学者が参加することはtwitterか何かの情報で知っていたが、あくまでもアフタートークのような形かと思っていたら、1つのパフォーマンスの中に組み込まれていたことに驚いた。研究者の講演なんて、パフォーマンスというにはほど遠いものに思えていたのに、その一部として融合させることができるなんて!!!

「分解」のレクチャーでは、発酵食品、そして積み木を例に、いわゆる「生産」活動に見えない、何かを破壊しているように見える行為もまた、新しい「生産」の形と言えるという趣旨の話をしてくれた。

これは、まさにこの公演で私たちが目の当たりにしてきた光景だ。仕立て屋(スズキ氏)は、布をどんどん切っていく。「布を切る」という行為は破壊的であるが、そこから新しいイメージを創造していく。

出店もサーカスの一部!厳選されたショップで余韻に浸る

曽我氏が、「出店もサーカスの一部」というように、厳選されたショップが出ており、お店によっては立ち上げの時から参加しているとのこと。公演の前や休憩中にパンやお酒を楽しんだり、厳選された書籍を読んでみたり…「仕立て屋のサーカス」のエッセンスを体感できる時間となっている。

サーカス・コート
100年前の仕立て鋏

ちなみに私は、写真のサーカス・コートと、「世界で一番短いサーカス」と曽我氏が言う「粒胡椒」を買った。粒胡椒は故障の実をオイル漬けにしたもので、口の中で1粒噛めば、ピリッとした風味がふわぁぁと口全体に広がる。確かにこれは「世界で一番短いサーカス」だ!

③「旅」…巡業、旅へのイメージ

サーカスは、基本的に各地を転々として興行を行う旅のイメージがある。そうした”流れ者”のイメージ(在り方)を「仕立て屋のサーカス」は踏襲しているように思う。曾我氏がプロデュースしているCDやカバンを「家出用」と言っているように、どこか遠くへさすらうような佇まいを見せる。

サーカスという非現実的空間、目の前で信じられない光景が広がる異世界感、それと旅は通じるものがあるのかもしれない。

子供の時の記憶力で…

今回、思ったより親子連れが多く、未就学児と思われる子供たちも多かった。私は彼、彼女たちがうらやましかった。というのも、舞台を観終わった時、終わってしまうことが無性に寂しく涙ぐんでしまったのだけど、その記憶を子供の時の記憶力で残しておきたかった。いや、ほとんど忘れてしまいたかった。

幼い時の記憶で、前後関係や何歳の出来事だったかは全て忘れてしまって、1シーンだけ、やけに強烈に記憶に残っている記憶というのはないだろうか。私にとってその1つが遊園地なのだけど、大きくなってもその遊園地が地図上のどこにあるかわからないし、何故かわざわざ親に確認する気にもなれず、曖昧な記憶のまま、自分の人生の年表のどこに位置付けていいかわからず、ぽっかり浮かび上がって宙を漂うようにして残っている記憶。本当に現実の出来事だったかさえ覚束なくなる記憶。

「仕立て屋のサーカス」という舞台は、そんな記憶にしてしまうのが最適なように思えた。旅するようにさすらい、目の前に現れた不思議なサーカス。空中ブランコも、ライオンやゾウも出てこない、音楽家と仕立て屋しかいない、不思議な光景、でも紛れもなくあれは「サーカス」だった。

この舞台を観ていた幼子たちは、いったい目の前に映った光景をどのくらい覚えているだろう?ほとんど忘れてしまうだろうか。ほとんど忘れてしまった後で、仕立て屋が布を裂き、音楽家がメロディーを奏でる光景だけが、ぽっかり彼らの心に残っていたら、これほど「サーカス」冥利に尽きることはないのではないだろうか。

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