【レビュー】青山文平『跳ぶ男』(文藝春秋)

本・漫画

青山文平『跳ぶ男』あらすじ・著者プロフィール

青山文平(あおやま・ぶんぺい)
1948年12月3日生まれ、神奈川県横浜市出身。
早稲田大学政治経済学部卒業。
経済関係の出版社に勤務後、フリーライターを経て2012年「白樫の樹の下で」で松本清張賞を受賞。15年『鬼はもとより』で大藪春彦賞を受賞。16年『つまをめとらば』で直木賞を受賞。他の著書に『かけおちる』『春山入り』『半席』『励み場』などがある。

あらすじ

台地の上にある資源に乏しい藤戸藩。その藤戸で唯一二家しかない道具役(=能役者)の家に生まれた屋島剛(たける)。唯一の友であり能の師でもあった岩船保(たもつ)は能にも文武にも優れ、いずれ藤戸藩を率いる人物になるかと目されたが、ある事件がきっかけで切腹となった。

土地が狭く、死者を埋葬する墓さえ作ることができない藤戸藩では、死者は野宮の川から海へと流される。その野宮の切り立った石の上で独り稽古を重ね跳び続ける剛。ある時、仏だおれという技を石舞台の上で稽古中に頭をぶつけ気を失う。気が付くと、藩の目付の鵜飼又四郎がいる。そして鵜飼は、未だ能役者として板の舞台に立ったことさえない”何者でもない”剛に、とんでもない命を下す。

夭逝した藩主の身代わりとなれーーー。

感想

・能の話であって、能の話にあらず

「能をテーマにした物語」と聞けば、主人公が能の世界における苦悩や喜びを経て一流の能役者を目指し、芸道の奥深さを描く、そうしたストーリーと想像するだろう。私もそのつもりで手に取り読みだした。しかし、こちらがそのつもりで読んでいても、物語はどんどん違う方向に進んでいく。

できれば何の前知識も入れずに読んでまっさらな状態で読んでほしいが、もう少しだけ説明させてもらえば、主人公の剛は夭逝した藩主の身代わりを鵜飼又四郎から命じられた。それは本来、剛の唯一の友であり、能における師でもあった岩船保が担うはずだったのだのだが、その保も切腹による最期を遂げたため、”身代わり”の”身代わり”に剛が選ばれた。それは小さな藩が江戸で他の藩とのつながりを持つための縁(よすが)こそ「能」であったからだ。

能をテーマにした小説を初めて読んだので、その他がどのような切り口で描かれているかは分からないのだが、「能をテーマにした小説」の最初の一冊が、まさか「能を道具として使う物語」だとは思わず、こういう切り口もあるのかと驚いた。しかしこの切り口は何も荒唐無稽なファンタジー(コミカル)な設定でもなく、またスポ根系の物語にありがちな”弱小チームが強豪チーム相手に一丸となって頑張るぞっ!”というような「行け行けドンドン!」というような雰囲気はまるでない。墓さえまともに持てない痩せた土地の藩、そして使者を送る野宮で稽古するしかなかった剛の、静かで厳かな”戦”なのだ。

泰平の世における「”戦”としての能」を描くことで、江戸時代における能楽の生々しさが感じられた。今では「伝統芸能」というラベルで、私たちは良くも悪くも「能のために能がある」状態の舞台を観ていると言えるが、江戸時代では式楽として大名の嗜みであり、武器でもあった。本作の中ではそのなかでも能の様々な側面を描いている。式楽として「失敗できない能」、その中でも「能のための能」を追求する者、せざるを得ない者が出てくる。そうした生々しさを帯びた描写が、翻って「能」という芸能の純粋さを浮かび上がらせているように感じた。

・練習こそ本番

本書の面白いと思った点に、本書の中でも演技や能についてもっとも言葉を尽くされているのは練習中のことである点だ。剛がヒノキの板の舞台に上がるようになっても、本番の舞台の描写は非常にあっさり終わり、能に関する描写の多くは稽古(準備)中、鵜飼との会話の中で登場する。芸道の深さ(能役者を目指す剛)を描いた作品ではないからという事もあるのだろうが、私はここに能という芸能の本質のようなものも感じる。

私は以前、観世流の野村四郎先生のもとで謡の稽古をしており、その間に先生が「雪号」をいただくことになり「幻雪」と名を改めた。観世流では「雪号」といって優れた弟子筋に「雪」の字を入れた名前が贈られるのだが、個人的にはそこに「雪」という字を持ってきたことが素晴らしいなと感じていた。美しさを表す言葉に「雪月花」とあるが、その中でも月でも鼻でもなく”雪”なのがいい。雪景色は壮観だが、雪そのものは非常に小さい。その非常に小さい雪の1つ1つ(=稽古)が積み重なって、壮観な景色を作る。そして時間が経てば消えゆく運命であることもまた、終われば一切が夢の如くなくなる舞台芸術の本質をも表すようである。その積み重ねの膨大さと、それによって表される景色の荘厳さ(静けさ、純粋さ)を「雪」という字が象徴しているように思えたのだ。

※本書のレビューからは脱線しますが、野村幻雪(四郎)先生の話については、ぜひこちらもご一読ください。

note ご指定のページが見つかりません

・怒濤のクライマックス

物語の中で、剛は終始、友であった保の言葉を繰り返す。自分に向けられた「思いも寄らぬことをやる」という言葉、そしてその保の願いであった「ちゃんとした墓参りができる国」という問題がずーっと出てくる。くどいほど出てくる。読んでいて「こんなに読者の期待値を上げて大丈夫なのか?」と不安になる程だ。そしていよいよ終盤となり、その「思いも寄らぬこと」が何であるかは隠されたまま、剛が何かの企てを立てていることだけは描写し、読者をさらに焦らす。

そして、物語の中で最後となる演能が終わった後、実に淡白に、それでいて芯の通った強さを湛え、剛は「想いも寄らぬこと」の企てを鵜飼ともう一人の忠臣・八右衛門に向って語り出す。単行本で3~349頁の本文の中で、最後のわずか10頁だ。そしてそれは本当に見事なほどに「想いも寄らぬこと」であった。大胆であり緻密、確信犯的暴挙…。

この最後の3行、静かで、虚しく、美しいこの3行に至るために、この物語はあったのだ。実に清々しく、一方であまりに唐突で「余韻」という言葉も生温いような、ぽっかりと空いたところにからっ風が吹くような心地にもなった。

映画化(映像化)して見たい作品

読み終えた後、本作は映画化(映像化)に向いている作品だと感じた。もしくは映像化することでより多くの人に支持される作品だとも言える。

というのも、演目や所作についての説明はどうしても用語を知っていないとイメージが湧きづらく、私も一時謡の稽古をしていたことがあったためある程度用語も把握できるし、随所に出てくる謡の詞章の抑揚も脳内でそれっぽく再生できるが、そうした下地(それこそ縁‹よすが›)がないと、少し読むのが苦しくなるだろうと感じた。

この物語の大筋は「能を知っている人にしかその面白さが分からない」というマニアックなストーリーではないため、言葉(説明)にした時のとっつきにくい部分を、映像ならビジュアルと音で端的に伝えることができるので「映像化→原作」という流れの方がより多くの人に広まりやすいのではないかと感じた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました