【レビュー】伊坂幸太郎『逆ソクラテス』

本・漫画

あらすじ

小学生の「僕」は、転校してきた安斎、クラスで”いじめ”とまでは言わないけど”見下していい奴”というポジションに置かれている草壁、そして優等生で皆から一目置かれている佐久間と、ある企てを決行する。それは担任の久留米先生に自分が持っている「先入観」を疑わせることだ。

小学校に通う少年たちを主人公にした短編集。いじめ、学級崩壊、クラブ活動…日常生活の中で子どもたちが導き出す「真理」とはーー。

きっかけはjunaidaの装画

もともと伊坂幸太郎は好きでこれまでにも読んでいたけど、『逆ソクラテス』はタイミングを逸してずっと未読のままだった。

それが「読もう!」と思うきっかけとなったのが、この装丁のイラスト。描いているのは、緻密で幻想的な世界のイラストを描くアーティスト・junaida

昨年から今年の1月まで立川のPLAY!MUSEUMで開催されていた「junaida展」で、初めてこのアーティストの作品に触れ、その世界観に一気に引き込まれた。そして、その展覧会の中で、本の装画を手掛けた一例として『逆ソクラテス』が展示されていたのだ。

『逆ソクラテス』原画(「junaida展」より)

展覧会のレビューはこちら。

伊坂幸太郎の独特な世界観と、一見メルヘンで可愛らしいけど、どこかシュールだったり毒があったりするjunaidaのイラスト。合わない訳がない!!そう確信して読もうと思ったのだ。

感想

展覧会での予感はピタリと当たった。伊坂節ともいえる、ちょっと理屈っぽい(今回の場合は”おませ”だったり物知りだったりする)キャラクターも登場し、ソクラテスの「無知の知」をベースに物語が進んでいく。

「逆ソクラテス」「スロウではない」「非オプティマス」「アンスポーツマンライク」「逆ワシントン」5つの物語はいずれも小学生が主人公(一部大人になった場面もあるが)で、ありふれた学校生活の中で起こるちょっとした出来事に遭遇する。

「先入観」に立ち向かう、「変化」する勇気

この5編に貫かれているテーマは「先入観」と「変化」ではないだろうか。

「逆ソクラテス」では、クラスの1人の男の子を「ダメな奴」というポジションに置いてクラスの秩序を作り上げようとする担任の先生に対する抵抗を描いているが、ここで主人公である「僕」やその友人たちは、「ダメな奴」ポジションになっている草壁の地位向上を目指していない。

先生の中にある「先入観」を壊そうとする。それは草壁自身の地位向上のためではなく、先生のそうした発言の影響で、同様の態度をとるようになるかもしれない未来の生徒を救うために彼らは動く。

この「先入観」はその他のストーリーにも形を変えて出てくる。時には子供たち自身がその「先入観」にとらわれて、思いがけない真実を知る話もある。

そして、ストーリーの中で主人公の少年たちは、何かしら行動を「変化」させている。それは大きな成功をもたらすような変化ではなくても、行動を起こして事態を好転させたり、自身の人生の礎になっていったりする。

大人は思うほど「大人」じゃない。子どもは思うほど「子ども」じゃない

そして、本書は全体的に「子ども」と「大人」の対比で描かれている。

小学生にとって、先生や両親など周囲の大人が「絶対的に正しい」存在になりがちだ。子どもの側がそう思うこともあるし、大人がそう”勘違い”して子どもと接してしまうことも多い。

しかし(これは大人になってようやく気付くことだが)大人って子供時代に思っていたほど大人じゃない。誰もが「人生一回目」だから間違いもするし、未熟のままの場合もある。だけど、子どもはもちろん、大人もそのことを忘れて(気づかず)、「大人⇒子ども」の一方通行、トップダウン型で関係を築いてしまいがちだ。

そうした危うい構造に対して、伊坂らしい手法でその「逆」を描く。

それぞれのタイトルに注目

そのことは、各短編のタイトルからもうかがえる。「ソクラテス」「スロウではない」「オプティマス」「アンスポーツマンライク」「ワシントン」と、全て否定形になっているのだ。これはブログ記事を書くために目次を見直した時に気が付いた。

「先入観」からの”逆”、「大人⇒子ども」というトップダウンからの”逆”など、様々な「逆説」が唱えられているが、私が一番好きなストーリーは「アンスポーツマンライク」。

これは「悪いこと」である「アンスポーツマンライク」(スポーツマンシップに背く反則)が、物語の中で「良いこと」として機能する話だ。ラストの結末自体は、伊坂作品を何度も読んでいる人には想像できる範囲なのだが、面白かったのは本当にラストの3行。

※下記ネタバレの内容を含むのでご注意ください

小学生の頃、ミニバスのチームメイトだった5人は、ラストの試合で負けてしまう。その時、駿介は相手の足を引っかけて「アンスポーツマンライク」のファウルを受けた。その後、彼らは高校生になって、たまたま公園にいた不審者を捕まえる手柄を挙げるが、さらにそれから数年後、その時の犯人が出所し、今度は彼らに復讐するために、彼らが集まる体育館にやってくる。

そして復讐にやってきた犯人を5人で捕まえる時、駿介は犯人の足を引っかけて転ばせる。

小学校時代の試合のシーンと、大人になってからの出来事がリンクする構成は「伊坂らしい構成」で想定内だった。しかし、その後が素晴らしい。「アンスポだったかな」と冗談で言った駿介が、改めて「ごめん。アンスポだった」と犯人に向っている。そして主人公の歩も心の中で頷く。

もしアンスポーツマンライクファウルだったら、相手はフリースローが与えられた上で、さらにリスタートの権利がもらえる。

いわゆる「無敵の人」になった犯人に、リスタートの権利を与えるためにも、足を引っかけて転ばせた駿介の行為は「アンスポーツマンライク」でなければいけないのだ。

「悪いこと(反則行為)でないと救えない」という矛盾するような構造、こうした視点を生み出すのが本当にこの作家な素晴らしいところだと思った。

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