皆さんは「鈴木其一(きいつ)」という絵師をご存じですか?幕末の江戸で、後に”江戸琳派”と称された酒井抱一の弟子で、師の抱一の情趣溢れる作品とは大きく異なる個性的な作品を多く残した絵師です。2016年にサントリー美術館で「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展が開催され、その時に観たという人も多いのではないでしょうか。今回は、そんな其一を主人公にした小説、梓澤要『画狂其一』(2017年/NHK出版)をご紹介します。
概要
あらすじ
江戸時代後期、藍染職人の息子として生まれた為三郎(いさぶろう)は、父親の死をきっかけに絵師・酒井抱一の弟子として入門した。酒井抱一は当時江戸で活躍し、元禄時代の絵師・尾形光琳に傾倒し、光琳の画業を顕彰し、また自身を光琳の系譜を引き継ぐ者として位置づけようとしていた。そうした抱一のもとで修業に励んでいた為三郎であったが、一番弟子の鈴木蠣潭(れいたん)が夭逝したため、その蠣潭の跡を継ぎ、名を「鈴木其一」と改めた。
其一はその後抱一の一番弟子として腕を磨き、抱一の工房である雨華庵を支えていく。しかし抱一の死後、一人の絵師として偉大なる師の枠から脱却するように、その画風は大きく変貌していく。
著者プロフィール
感想
①《夏秋草図屛風》はこうして生まれた~其一を通してみる酒井抱一~
前半は其一を通した”抱一”の姿がメイン。前半のクライマックスは何と言っても抱一の代表作の一つで、あの尾形光琳の《風神雷神図屛風》の裏に描かれた名作《夏秋草図屛風》の誕生物語。日本美術史においても稀な時空を超えての巨匠と巨匠のコラボレーションとも言うべき本作が描かれた経緯やその時の抱一、そして弟子として一番近くでれを支え見届けた其一の姿が生き生きと描かれています。
今現在では光琳も抱一も等しく巨匠ですが、当時においては「過去の偉大な先駆者の光琳」、「今の時代における牽引者の抱一」という立場の違いがありました。その中で《風神雷神図屛風》と《夏秋草図屛風》の異色の競演がどのように実現したのかⅤ抱一が光琳に対してどのように感じていた憧れ、畏れ、そしてその憧れでもある光琳をも凌駕したと自負する絵師としての誇り、そうした一言でまとめることのできない複雑な思いを、弟子である其一の眼を通して描かれています。
また、現代の私たちの芸術家イメージだと、どうしても画家が一人で完成させるというイメージになりますが、当時は”芸術家”という概念はなく、どちらかというと”職人”という感覚で、それそれ工房をもって弟子たちと分業をしながら制作するのが普通でした。そうした工房の様子を感じられるのも小説の魅力だと思います。
②あの絵師も、あの役者も登場
本書では、尾形光琳はもちろん、その他にも有名な人物が多数登場します。抱一、其一の同時代の人として、葛飾北斎、歌川広重など浮世絵師の存在にも触れられており、また谷文晁、7世市川團十郎や井伊直弼といった人物も抱一の友人、あるいは注文主として登場します。こうした歌舞伎界の筆頭役者や大名の名前まで出てくるのが、当時の江戸の文化人のネットワークの中で重要な位置にいた酒井抱一の存在の大きさを物語っています。
また時代的にも一世代ズレるので直接的ではないですが、伊藤若冲の名も登場し、其一が《動植綵絵》を実見したり、西福寺の《仙人掌群鶏図》についても触れられており、江戸時代中期~後期の日本美術史の百花繚乱たる様を感じることができます。
③其一の名作《朝顔図屛風》の制作
私はサントリー美術館で其一の《朝顔図屛風》を初めて見た時、単に「キレイ」とか「面白い絵」では済まされない、一種の恐怖を感じました。蔓の伸び方は「蠢く」と表現した方が適切に思えたし、朝顔の花は”毒々しい”という言葉は似合わないですが、おびただしい数で満開に咲く様子には妙な”禍々しさ”がありました。本書では私のこうした恐怖の理由を言葉にしてくれたように思います。
ドクッ、ドクッ、ドクッ。
梓澤要『画狂其一』より
音がする。
自分の手首の血管が脈打つ音か、と思った。
いや、違う。絵の朝顔から聞こえてくる。
茎や蔓先の中を流れる水の音だ。茎から葉へ、葉脈の隅々まで駆けめぐり、蔓の先端へ、かそけく、それでいて力強く流れている。
まるで鼓動のように規則正しく流れている。まさに生命の音だ。
生き物のように蠢くような様というのは作品を観ても感じられたことですが、それを”水の音”=”生命の音”と表現しているところがすばらしいと思いました。この”流れる水”というもこの物語、其一の画風において重要なカギになってきます。
上記の引用だけ読んでも「ふーん」と思うだけかもしれませんが、実はこの結末に至るまでの間に抱一の時代から伏線が随所に張り巡らされていることに気づくと、この言葉の重みが伝わってきます。「ああ、この境地に至るために今までがあったのか」と思わされ、実に巧みな構成であることに気づきます。
④本書のテーマは”画に狂する”
本書は一言で言ってしまえば「絵師・鈴木其一の生涯の物語」なのですが、一方で、其一はもちろん、抱一、そして直接的には出てこないが其一が影響を受けた絵師として北斎や若冲も含めて「画に狂う」者の性(さが)がテーマになっていると感じました。
読後にふと気づいたのは、この「画に狂う」ことができた者はある意味幸せで、本書の中では、一方で「画に狂わされた」者の姿が裏の旋律を奏でるように描かれていることです。
其一の実の父親、鈴木鶏邨、酒井鶯浦…時代の波に乗れなかった者、実力が認められなかった者、偉大なる父の影に押しつぶされかけた者…そうした者の存在も同時に描かれることで、己の画の道に突き進むことしかできない”画狂”にしかなれない者の性が一層際立っています。
個人的にはその”画狂”の系譜がラストで其一からある人物へと移っていく様子の描写が胸アツでした!もし誰のことかピンときていなければ、決して鈴木其一の生涯を検索することなく、本書を読んで知るのが衝撃的でドラマティックで面白いと思います!
鈴木其一をもっと知りたい!
鈴木其一の作品をもっと知りたい!見たい!という人におすすめの本(図録)を紹介します。
・サントリー美術館『鈴木其一 江戸琳派の旗手』
其一の《朝顔図屛風》《夏秋渓流図屛風》をはじめ、《風神雷神図襖絵》、凧絵など、物語にさらりと登場する作品も含めて見ることができる。また其一だけでなく抱一、兄弟子の作品も展示されていたので、これを見れば物語の世界が一層色づいてくるでしょう。
・河野元昭『鈴木其一 琳派を超えた異才』
・「酒井抱一と江戸琳派の全貌」展図録
酒井抱一の画業全体を俯瞰することができる集大成的な展覧会の図録。
作中に登場する作品は今どこにある?
作中に出てくる作品が現在どこに所蔵されているかをまとめました。日本美術は西洋絵画と違い、材質の紙や絹が光に弱いため1年中の展示が難しいため、展示状況は各館のHPをご参照ください。
光琳の《風神雷神図屛風》の裏に抱一が《夏秋草図》を描いていますが、現在は2つに分けられています。どちらも東京国立博物館に所蔵されています。常設展で見ることができるかもしれません。
物語の後半、抱一の影響化から脱却しようともがいていた其一が、己の画風を確立する記念碑的な作品として登場する《夏秋渓流図屛風》は、現在青山の根津美術館に所蔵されています。毎年何かの展覧会の折に展示されている印象なので、展示状況についてはHPなどでチェックしてみてください。
ちなみに根津美術館は尾形光琳の《燕子花図屛風》も所蔵されており、毎年燕子花が咲く5月の時期に展示されています。其一、そして抱一に多大なる影響を与えた光琳の代表作と《夏秋渓流図屛風》が一緒に所蔵されていることは運命的ですらありますね。
本の装幀にも使用され、物語のクライマックスを彩る《朝顔図屛風》はアメリカのメトロポリタン美術館に所蔵されています。そのため日本では中々現物を見る機会はなさそうですが、メトロポリタン美術館のHPでも紹介されています。
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