「歌舞伎って難しい」というイメージを持っている人、自分には馴染みのない分野だからと食わず嫌いならぬ”知らず嫌い”をしている人もいるのではないでしょうか。そんな人には小説から歌舞伎の世界の一端に触れるというのもおススメです!
この記事では歌舞伎にまつわる小説の中でも特にミステリー物を紹介します。ミステリー物の小説なら、歌舞伎の世界を全然知らなくても謎解きとして面白いので、その物語を楽しみながら歌舞伎の世界の魅力にも触れることができます。
近藤史恵『歌舞伎座の怪紳士』
あらすじ
『オペラ座の怪人』ならぬ”歌舞伎座の怪紳士”ーー社会人として会社勤めをしていた久澄は在ることがきっかけで心を病んで現在は無職。実家暮らして働きに出る母の代わりに家事の一切をする日々。ある日、父方の祖母から毎月歌舞伎の舞台を観に行くという不思議なアルバイトを頼まれる。人生で初めて歌舞伎座を訪れると、そこで1人の紳士と出会う。そんなとき、座席で不可解な行動をする女性が目に入るーー。
著者プロフィール
感想
『オペラ座の怪人』になぞらえたタイトルから、歌舞伎座に怪しい男が潜んでいるのかーーと想像したが、物語は仕事で心のバランスを崩して働くことができなくなった女性が、祖母からの依頼で初めて足を踏み入れた歌舞伎座である紳士と歌舞伎に出会い、一歩を踏み出すストーリーでもある。
それまで舞台を熱心に観るような生活ではなかった主人公というところは、歌舞伎ファンにとってもまだビギナーという人にとっても親しみやすい設定だと思う。そして歌舞伎の舞台で、またそこで出会った紳士との交流の中で、舞台の面白さに気づき、それが活力となって自分自身の生活を前向きに踏み出そうとする姿は、”推し活”をする人にとっては「分かる!」という部分もあるはず。
本作では、劇場で人が死んだりするような大事件は起きないけれども(爆破予告事件は起きたが)、様々な不可解な出来事が主人公の久澄の周囲で巻き起こる。それを歌舞伎座で出会う”怪紳士”の助けも借りながら解決していくが、後半からはその”怪紳士”の謎へと移って行く。
読み終わると「今日も劇場のどこかでもしかしたらこんなことが起きているのかも…」とちょっと妄想したくなる一冊。
近藤史恵『桜姫』
あらすじ
歌舞伎役者の息子であった音也は幼い時に病気で亡くなった。その後、腹違いの妹の笙子は父の元に引き取られて育った。ある時、名題下(歌舞伎の世界で立廻りを担う)の役者・中村銀京と出会う。銀京は病気で死んだとされる日付の4日後に会っていたという。そして音也の死を不審に思い真相を探ろうとする。笙子はそんな銀京にずっと抱えていたある秘密を打ち明けるのであった。
私が兄を殺したーーー。
感想
タイトルの”桜姫”とは、鶴屋南北作『桜姫東文章』からきている。
『桜姫東文章』とは
『桜姫東文章』は、道ならぬ恋をした僧・清玄と稚児・白菊丸。この世で一緒になれないからと、互いに互いの名を彫った香箱の身と蓋をそれぞれ握りしめて海に身を投げて心中しようとする。しかし先に心中した白菊丸に対し、清玄は死にきれず生き残ってしまう。
17年後、阿闍梨という高僧になった清玄は、生まれつき左手が開かないという奇病をもつ桜姫と会う。出家を願う桜姫のために念仏を唱えると今まで開かなかった左手が開き、その左手からは”清玄”と書かれた香箱の蓋が出てくる。桜姫は白菊丸の生まれ変わりだったのだ。
その事に気づいた清玄、何も知らずかつて自らを犯した男を慕い、隠れて子供まで生み落としていた桜姫、その桜姫を犯した張本人である小悪党の釣鐘権助。この3人の因果が絡み合う物語。
エロティックで頽廃的な『桜姫東文章』の世界が、本書の奥底でも流れている。兄の死を不審に思う銀京と笙子の視点と、銀京にとって歌舞伎界の先輩である女方役者・小菊の視点が交互に代わりながら物語は進んでいく。どちらの視点にも重要人物として登場する銀京は、笙子の視点からでは誠実で優しく、幼い時の親友であった音也の死を心の底から悼む人だが、小菊の視点からは、名題下では終わらないという野心をのぞかせ、そしてそのために着実に駒を進める実行力を伴った、少し危険な人物として描かれている。
どちらが本当の銀京なのか、そして銀京はなぜそれほどまでに音也の死にこだわるのか…そうした疑問物語が進むごとに深まって行く。しかしラスト、全ての真相は実にあっさりと紐解かれる。しかし、ラストに明かされる兄・音也の死の真相は全くもって予想がつかないことだった。
ラストの真相を知った時、「『桜姫東文章』をこうアレンジするか」という驚きは瞬時に「なるほど、これはまさしく”桜姫”だ」という感嘆に変わった。
稲羽白菟『仮名手本殺人事件』
著者プロフィール
あらすじ
歌舞伎座建て替え前の最後の顔見世興行は、歌舞伎の三大名作のひとつ『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言。その上演中に起きた歌舞伎役者の突然死。そして客席からも一人の客が忽然と消える。通称”通さん場”と呼ばれる歌舞伎ならではの演出は、この不可解な事件によって”密室”へと変わり、2つの事件は因果の果てに深く絡み合う。
感想
事件が起きる”通さん場”とは、『仮名手本忠臣蔵』の「判官切腹の場」のこと。江戸城で高師直を斬り付ける刃傷事件を起こしてしまった塩冶判官が切腹する場面。歌舞伎の興行では上演が始まっても客席の出入りは可能だが、物語上最も緊迫感に満ちたこの場面だけは、上演中の一切の出入りを禁じることが慣例となっているのだ。それを一種の”密室”と見立てた視点が面白い。
舞台の上演中に毒を盛られて死んだ歌舞伎役者の芳岡仁右衛門(じんえもん)の事件。その容疑者は、その舞台を観に来ていた芳岡家の一族と絞られていくが、なぜか仁右衛門から招待されていた一組の母娘の存在が浮かび上がる。まるで接点の内容に見えた芳岡家と田舎から観劇に来た母娘だが、真相に迫る主人公たちは、この二つの家が思いもかけない程深く、濃く、絡んでいることを知るのである。
忠臣蔵の上演中の事件、というだけでなく、歌舞伎ならではの”因果”が巡り巡っていく手法が本作でも取り入れられており、表面的には殺人事件を解決しようとする謎解きが進んでいくのだが、次々と明らかになる真相からは、人間の仄暗い性(さが)、業の深さが描かれている。
『仮名手本忠臣蔵』だけでなく『東海道四谷怪談』、『本朝廿四孝』の八重垣姫、『娘道成寺』といった歌舞伎の古典作品の演目や登場人物になぞらえた描写が織り交ぜられ、世にも奇妙で恐ろしい殺人事件となっている。
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