【レポート】『ゴールデンカムイ』アイヌ語監修・中川裕氏トークイベント

暮らし

現在、後楽園で「ゴールデンカムイ展」が開催中で連日多くのファンが会場に駆け付けています。そんな漫画『ゴールデンカムイ』の魅力を支えている理由の1つであるアイヌ文化の描写には、アイヌ語監修を務める中川裕先生の存在が欠かせません。

その中川先生を招いてのトークイベントが先日開催されました。『ゴールデンカムイ』ファンとして、ミーハー気分で参加したのですが、中川先生を通じて知るアイヌの人々の考え方は、今を生きる私たちにとっても大いに参考になる事ばかりでした。この記事では私自身の備忘録も兼ねてレポートします。

イベント概要

イベントは巣鴨や大塚でコワーキングスペースやイベントスペースなどを運営するRYOZAN PARKで開催されている「梁山泊茶論」の企画の第3弾として開催されました。

梁山泊茶論[異人編] vol.3
アイヌ語研究家・中川裕さんと考える「貫く力」

この梁山泊茶論[異人編]は、毎回、我が道を切り拓いてきたゲスト[異人]をお呼びし、その体験をシェアするとともに、参加者のみなさんとの対話を通じて、新たな刺激を提供する新シリーズです。ナビゲーターを、北海道清水町、旭山剣山の麓でハポネタイ(母なる森)という場を設け、アイヌ文化の表現活動・体験活動を行うハポネタイ代表のUtaEさんが務め、これまでビジネスの世界にあまり登場しなかったような方々をゲストにお呼びしてお届けしていきます。(HPより引用)

梁山泊茶論[異人編] vol.3:アイヌ語研究家・中川裕さんと考える「貫く力」
この激動の時代に、どうすれば揺るぎない自分を貫き通せるのか? 昨年のベストセラー『シン・ニホン』の中で、著者の安宅和人氏は、これからの時代に必要なのは、"創造"と"刷新"ができる『... powered by Peatix : More than a ticket.

中川裕先生のプロフィールはこちら。

中川裕(1955-)
千葉大学文学部教授(※現在は退職して名誉教授)。東京大学大学院人文科学研究科言語学博士課程中退。1995年、『アイヌ語千歳方言辞典』(草風館)を中心としたアイヌ語・アイヌ文化の研究により金田一京助博士記念賞を受賞。野田サトル氏の漫画「ゴールデンカムイ」では連載開始からアイヌ語監修を務める。著書は『アイヌの物語世界』(平凡社ライブラリー)、『語り合う言葉の力』(岩波書店) など多数。
(『アイヌで読み解く「ゴールデンカムイ」』より引用。一部注釈を入れた)

『ゴールデンカムイ』とは

ヤングジャンプで連載されている野田サトル『ゴールデンカムイ』は明治時代(日露戦争後)の北海道を舞台に、アイヌ民族が残した金塊を巡る金塊争奪バトル漫画。日露戦争で”不死身の杉元”と呼ばれた主人公の杉元佐一は、アイヌの少女アシ(リ)パと出会い、陸軍第七師団や函館戦争で死んだはずの土方歳三らの陣営と時に共闘し、時に対峙し、金塊の発見の手がかりとなる刺青を持った囚人たちを探し、金塊発見を目指すストーリーです。(※(リ)の表記は正しくは小文字)

強烈で個性的なキャラクターと予測不可能な展開、そして何より作中で描かれているアイヌ文化の描写の掘り下げ方が深く、数々の賞を受賞し、2021年には文化庁のメディア芸術祭で、漫画部門ソーシャル・インパクト賞を受賞しました。

トークイベントスタート!

トゥレンカムイの計らい

冒頭の挨拶で登壇者のUtaEさんと中川先生の出会いの話や、先生の紹介が終わると、UtaEさんが「今日ここに集まった私たちは、”トゥレンカムイの計らい”で集まっている」ということを言い出しました。

よもつ
よもつ

ちなみにUtaEさんは『ゴールデンカムイ』のアニメ(第3話)でオソマが演奏するムックリを実演している方です!『ゴールデンカムイ』の世界を支えている二人のお話が聞けるなんて‼

トゥレンカムイ〔『ゴールデンカムイ』の中ではトゥレンぺ(憑き神)〕とは、人間の首の後ろ(ぼんのくぼ)に居る、もしくはそこから出入りしており、誰にでもいる”守護霊”のようなもの。UtaEさん曰く、誰かと誰かが出会う時、本人のトゥレンカムイ同士が事前に会って約束をしているから「今ここで出会う」のだと言います。

人生の中で不思議な縁で出会ったり、偶然な出会いがまるで必然であったかのように感じるような経験があると思いますが、そうしたことはトゥレンカムイの導きと考えるようです。トゥレンカムイの計らいによって集った今宵、どんな時間となるのかワクワクしてきました。

『ゴールデンカムイ』は何がすごいのか

トークセッションは、まず話の入り口として漫画『ゴールデンカムイ』の社会的意義について、「アイヌ」をどう表象しているかという切り口から始まりました。

漫画自体の魅力、ヒットした理由はストーリーの面白さ、個性的なキャラクターなどなど色々ありますが、「アイヌ文化を描いた作品」という観点から言えば、次のようになるとのこと。

「他者(和人)が入っている世界」の中で、アイヌの人々が「弱者として描かれていない」

アイヌが登場する作品は過去にも手塚治虫の『シュマリ』、石坂啓漫画、本多勝一原作 『ハルコロ』などがあります。しかし中川先生曰く、前者はアイヌを”弱者”として描いており、また後者は和人が登場しない「アイヌだけの世界」でした。そうした中で、『ゴールデンカムイ』は明治期(日露戦争後)の北海道、和人が北海道を統治下に置いた時代という「和人の世界にアイヌが組み込まれた中」で、決してアイヌを「弱者(守るべきもの)」として描いていない点に意義があるとのこと

確かに作中では、和人の杉元とアイヌのアシ(リ)パは、「成人男性/未成年女性」という対比はあっても、あくまでも対等の関係で描かれています。

よもつ
よもつ

作者の野田先生のインタビューでは、キャラクターのバランスとして男性の杉元に対して、少女のアシ(リ)パという設定になったという事のようです。それが今までアイヌ文化を知らなかった(”差別された歴史を持つ先住民”という憐憫の眼差しを向けていた)私にとっては、強烈なインパクトがあり、純粋に「カッコいい!知りたい!」と思うようになりました。読者にそう思わせる力を持つ事がフィクションの力ですね。

今を生きるためのヒントー「生きづらさ」から解放されるために

「伝統を守る」とは?ーー男の仕事/女の仕事

話は、このイベントの数日前に行われたアイヌの伝統的な祈りの儀式「カムイノミ」に移り、テーマは「男の仕事/女の仕事」というジェンダーの問題、そしてそこから「伝統を守る」とはどういうことかという問いになります。

従来、カムイノミの儀式で使われるイナゥと呼ばれる木幣を作るところを女性は見ることができないとされています。祭事は「男の仕事」だからだそうです。

日本でも(恐らく世界中でもある)こうした「男の仕事/女の仕事」「男だから/女だから」という問題をアイヌの人々はどう捉えているのか。もしくは「アイヌ文化を継承する」という時に、こうした固定観念、古き慣習とされていることとどう折り合いをつけているのでしょうか。

こうした問いに対して中川先生は次のように言い切ります。

「これは男性(女性)がする仕事」という一定のルール(規範)はある。しかしそれをする人がいなくなるなど、必要になれば男性の仕事を女性が、女性の仕事を男性がすればいい。

それは今現在のことではなく前からそうで、家の中で男がいなくなり、いわゆる「男の仕事」をする人がいなくなったら女性がその仕事を普通にしているということです(逆もまた然り)。敢えて言えば、「(慣例的に)一番相応しい人がいるならその人がすればいい。居ないなら他の人がすればいい」という事のようです。

男女に限らず、先生がアイヌの会話を聞きたくて何人かの女性を集めて話を聞いていても、積極的に語るのは年長の女性一人で他の人はほとんど話をしない。そして、その年長者がいなくなったりすると、次はそれまで物静かにしていた人が話し出すのだそう。要は「できる人がいるのに、それを差し置いて自分がでしゃばるような真似はしない」という感覚がアイヌの人々にあるだけで、ルールに雁字搦めになっている訳ではないということです。

生きた伝統でなるなるほど縛りがきつくなる。
型に囚われていることは伝統を破壊していること。

時代や状況に合わせて柔軟に変えていくことで、”生きた伝統”になる。

これはとっても痛感する言葉でした。私自身、伝統文化に関する仕事をしている中で「何を変えるか/変えないか」ということは日々直面する問題でもあったからです。

特に「生きた伝統でなくなる程縛りがきつくなる」というのは正にその通りと感じました。これは恐らく受け継ぐ側の人が「怖い」からなのだと思います。本質を理解している自信がないからこそ型(ルール)にこだわる。「伝統」という大きなことでなくても、会社や家庭など、身近な組織の中でもこうしたことってありますよね。とりあえず型(言い換えれば前例)に倣っているのが簡単だし安全。でもそれこそが「生きた伝統」を壊していくことに他ならないのです。

なんでもカムイのせい!?

今回特に興味深かったのが、アイヌの人々は何でも「カムイ」のせいにしてしまうということ。これについては2つほど中川先生が挙げてた例を紹介します。

亡くなった夫の他に好きな人ができたら…

アイヌのルールでは、夫が亡くなったら女性は3年間頭巾を被って喪に服さないといけないらしい。その間は他の男性と付き合ってはいけないし、当然再婚もできない。でももしその間に好きな人ができたらどうするか。
‥‥答えは、林の中を駆け回る。そう、林の中を走っている最中に木の枝に引っかかって頭巾が脱げてしまえば、「カムイが脱がした」→カムイが「もう十分」と言っているから頭巾が脱げた→他の人と結ばれてOKだよね!ということなのだ。

都合が良い!(笑)…と、つい笑ってしまいたくなりますが、新たに恋をする事は決して悪いことではありません(不義とかでなければ…)。亡き伴侶を大切に思う気持ちと、新しく誰かを好きになる事は両立し得ることです。人を愛する気持ちは自分でコントロールできるものではないからこそ、その解決策として「カムイ」の意思を間にいれます。

飲み物をこぼしてしまったら…

中川先生がある時アイヌの人の家で話を聞いていた時、うっかり飲み物を床にこぼしてしまい、慌てて拭こうとしたら、おばあさんに「拭かなくていい」と言われたそう。

というのも、アイヌではこうした時「床のカムイが飲み物を欲しがっていたから」と考えるのだそうです。

これもとてもいい考え方ですね。もし飲み物を床にこぼしてしまったら、当然慌てて床を拭いて、もし周りに人がいたら自分の粗相を詫びることでしょう。しかし、人間誰しもうっかりやってしまうことはあります。そうしたことをいちいち本人のせいにするとどんどん辛くなりますが、本人の不注意であってもそれを「カムイが望んでいるから」とすることで、多くの場面で物事が和やかに解決するのではないでしょうか。

端から見れば「都合よくカムイのせいにしすぎ」と見えるかもしれないですが、自分でコントロールできることなんてたかが知れています。アイヌでは「ちょっとトイレに行ってきます」と言う時も「人使いのカムイに呼ばれた」という意味の言葉を言うそうです。恋心にせよ、便意にせよ、改めて考えたら私たちは自分の身体すら自分の意思で全てコントロールしている訳ではありません。

そうしたコントロールできない事に対して、周囲の「カムイ」の意思によることと考えることで、必要以上に自分のせいにしないで済むのです。「カムイ」の存在があらゆる場面で”緩衝材”のように働き、少し生きるのが楽になるのではないでしょうか。

全てに「カムイ」が宿るーー究極のSDGs

アイヌの言葉と文化について長年研究してきた中川先生の体験談を通じて、私たちは「身の回りのあらゆるものには”カムイ”が宿る」というアイヌ文化の根底とも言える思想(世界観)を知ることができましたが、こうしたアイヌの思想・文化を今の私たちが知ること、継承していくことの意義とはどういうところにあるのでしょうか。

その事に対して中川先生は「全てにカムイが宿ると考えれば、おのずとそれらのモノに対する接し方も変わってくる。それを今の言葉で言えば”SDGs”ではないか」と仰っていました。「SDGs」という言葉が生まれるよりもはるか前から、日本には持続可能な社会のための生き方をしている人たちがいたのです。

狩猟(生き物を殺すこと)への向き合い方

ここで、少しトークイベントの内容からは外れて、私が『ゴールデンカムイ』を読んでいて感じていたことを話したいと思います。私が本作の中でアシ(リ)パというキャラクター、ひいてはアイヌ文化に対して「良いな」と思っていたことの1つに、狩猟(生き物を殺すこと)に対して、必要以上に罪悪感を抱いていない点でした。

アシ(リ)パは作中で熊や鹿はもちろんリスやウサギと言った可愛らしい小動物も熊も躊躇いなく狩るし、その事に”罪悪感”は抱いていません。しかしだからと言って当然「(生き物は人間に)殺されて当然」とも思っていない。人間も動物たち(の毛皮を纏ったカムイ)も対等と考えます。

対して、和人の世界では長らく屠殺(屠畜)業を限られた人たちにさせて、それを生業にする人々を差別してきました。思うにこれは生き物を殺すことへの罪悪感(あるいは”穢れ”の意識)から目を逸らしたい、問題に向き合いたくない事の現れでしょう。そしてそうした歴史を歩んできた今の社会がどうなったかというと、大量に生産する一方で、大量廃棄が問題になっています。”作る者”と”消費する者”を分けたことで「生き物を殺す」ということへの責任の意識が”消費する者”から薄れ、結果的に生き物の命、尊厳を軽んじている状況です。

自ら命を奪い、その責任をしっかりと受け止めて、肉や皮を余すところなく使うアイヌの社会と、屠殺を忌避し日常生活から排除し続けた結果、大量廃棄という問題をもつ現代の社会。どちらが人間として、地球に生きる生き物の1つとしてあるべき姿かと問われれば、やはり前者になるのではないでしょうか。

時々、動物保護の観点でヴィーガンを提唱する方を見かけます。もちろん個人の嗜好でヴィーガンとなる事は決して否定しませんが、「肉や魚を食べること=悪」にし過ぎるのも極端だなと感じていたので、少なくとも「適切な分量を適切に使う」アシ(リ)パの振る舞いは、大きなヒントになると思います。

最後にーー”日本文化”とは

トークイベントの最後、中川先生からは次のような言葉がありました。

いい加減「日本文化」は一様ではない事を知るべき。
一本の直線のようなものではなく、もっと多様な文化がモヤモヤと広がるようにある。
その多様な様相をそのままに理解していく必要がある。

「日本の歴史」あるいは「日本文化」というと、小中高校で習った「日本史」の中に登場する「〇〇文化」の流れで認識している人がほとんどだと思います。しかし実際はそれはほんの一部(マジョリティ)の文化なだけであって、実際の(現在)日本(と称される範囲の土地)には、もっと多様な文化が同時多発的に存在し、流動(交流)し、結びついていました(※)。

※注:「アイヌ」の歴史・文化を「日本」に組み込むという意味合いではありません。今「北海道」と呼ぶ地域と「日本」とするなら、そこに住む「アイヌ」の文化もまた広く「日本文化」であり、私たちが「日本文化」という時にイメージする物(範囲)を拡張する必要があるという事です。

中川先生はその”本当”の文化の在り方をそのままに理解する必要があると言います。それを理解するのは確かに複雑ですし、(恐らく統治する側の都合で言えば)面倒なことです。しかし、その単一的(直線的)にしか日本の歴史や文化を把握していては、まず「多様性」を受け入れることはできず、これからの時代においてはむしろどんどん「生きづらく」なってくるようにも思いました(あるいは他者との衝突を起こし続ける歴史を歩まなければいけないか)。

アイヌ文化に触れる

最後に、改めてアイヌの文化と思想に触れる1冊として中川先生の著書を紹介します。

漫画はあくまでフィクションなので、やはり随所に実際との違いはあります。本書ではそうした違いにも触れているので、漫画のファンの方は必携の一冊。そして、まだ漫画は読んでいないという方でも、アイヌ文化を知る最初の1冊としておススメします。

また、UtaEさんが主宰している「ハポネタイ」では、アイヌ文化の継承・発展のための活動はもちろん、世界中の先住民をルーツに持つ方々との交流なども視野に入れた活動を展開されています。

「ハポネタイ」Facebookページ

漫画『ゴールデンカムイ』では、アイヌ文化だけでなく、樺太、ロシアといった日本の周辺の地域・国の文化、また日本の中でも、薩摩、新潟(佐渡)、秋田と言った”中央”に対する”周辺”地域の言葉・文化に対してとても丁寧に扱い表現されています。

そうした気づきや眼差しを、これから今の時代の中でどう養って自分自身の生活の中で糧として行けばいいのか。明治時代の北海道を舞台に、失われつつある文化を守ろうとするアシ(リ)パ、彼女の生き方を受け止めそのために共に闘って生きた杉元佐一、ふたりの冒険を見届けたファンとして、このトークイベントでのお二人の話を指針に考えて行きたいと思いました。

※アイキャッチ画像は会場のRYOZAN PARKのHPより借用させていただきました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました