s**t kingz「HELLO ROOMIES!!!」(ハロルミ)と文楽①

エンタメ

6月2日。s**t kingz(以下、シッキン)のファンサイト「062」によるファンイベント「062感謝祭」にて、2022年9月より開催される舞台『HELLO ROOMIES』(以下、『ハロルミ』)のリハの様子が生配信された。

『HELLO ROOMIES!!!』Teaser video

シッキンはこれまで、登場人物はメンバーの4人のみ、ダンスのみの舞台(無言芝居)を度々発表してきたが、今回の『ハロルミ』では、A子という人形(以下、A子)が主人公として登場する。そのA子と一緒に初めての練習(という設定)で、メンバーがA子をどう動かすことができるのか、A子に何ができてどういう動きが難しいのかを探るというものだった。私はこの配信を見て驚愕した。

「もうこれは文楽(人形浄瑠璃)じゃん‼」

1体の人形を4人の人間が操り、人間さながらの(時に人間離れした)動きを見せるその光景は、日本の伝統芸の1つである文楽の人形遣いとオーバーラップした。そして、文楽(人形浄瑠璃)が誕生してから試行錯誤して到達した一つの表現形態を、ものの数十分で、知識とかではなく自分たちで模索する中で自然と到達してしまうシッキンの”勘どころ”に驚くと同時に、翻って約300年も前に「人形を使ったパフォーマンス」としての究極の形を完成させた文楽(人形浄瑠璃)の芸もまた凄いと思った。そして配信後には、「人形が動くことの何が魅力なのか」「直観的に”文楽だ”と思ったけど、実際何が似ているのか?」と疑問が湧いてきた。

そこで、この記事では『s**t kingz「HELLO ROOMIES!!!」と文楽』と銘打って、両者の類似点、相違点から私が感じた驚きや感動が何によるものなのかを探っていきたい。

※配信されたリハでのパフォーマンスを基に語っているので、最終的な『ハロルミ』は全然違うことになっているかもしれません。その点ご理解の上、ご笑覧くださいませ。

「シッキン」と「文楽」の共通点/相違点

まずは配信の時に感じた「目に見える部分」においての共通点、相違点を整理する。

共通点

・1体の人形を複数人で操作する(しかも基本操作に必要な人数は3人)
・人形を使う人物が身体を隠していない
・人形の下半身は芯がない(文楽の場合、女性の人形には足がない)

相違点

・文楽では人形のみが舞台の登場人物(人形遣いは姿は見えても、”いない”存在)
 ⇔シッキンの場合、人形遣いの役割とパフォーマンスを行う
・文楽では人形遣いのポジションの変更なし
 ⇔シッキンは適宜ポジションチェンジあり

直観的に似ていると思った点のうち、特に興味深いのは、基本操作に必要な人数が共通して3人であったことだ。文楽の場合、物語の主要登場人物である人形は3人で動かす。「主遣い」は頭と右手を担当し、3人の中でも最もベテランが勤める。その次が「左遣い」と言って人形の左手を動かす。そして人形の下半身を担当する「足遣い」だ。相違点にもあるように、そのポジションは動くことはない。

文楽の人形の使い方についてはyoutubeにイベントでの解説動画があったので、ご参照ください。

シッキンの場合、概ね「頭(と胴体)担当」「右手担当」「左手担当」の3人が基本で、足は適宜必要な場合に動かせる人が動かし、余った4人目がさらにサポートが必要な所に入ったり、次の動きのために先回りしたり、ポジション変更のスイッチングをしたり、時には舞台装置(今回の場合で言うとカズキさんの階段)などを担う。

人形を「人間らしく」動かすためには基本3人で、そのフォーメーションも近いところがすごい。滑らかに動かすという「機能性」と、人形の周りに人間が多いと見栄えが悪いという「審美性」の観点から導かれる人形遣いの最大公約数が3人ということだ。

恐らくシッキンは文楽のこうした体制を予め知っていた(勉強した)とは思えない。もしかしたら人形を発注する段階で、ある程度動かし方の目処は立てていたのかもしれないが、やはりダンサー(振付師)として「どこをどう動かせばいいか」を体感として知っていることが大きいだろう。

そして冒頭の感想の通りなのだが、令和の時代に世界的ダンサーが経験的に導き出した人形の使い方を、文楽の世界では数百年も前に確立していたという点で、翻って文楽の凄さに思い至る次第だ。

人形の姿の共通点・相違点

フォーメーションについて非常に近いものがあったシッキンと文楽、では人形そのものの作りにおいては、どのような共通点・相違点があるだろうか。

文楽では女性の人形は下半身がなく、着物の裾を動かしてまるで下に足があるように見せて動かしている。一方のA子は一応両足あるが、芯がある訳ではなくグニャグニャしており、足を動かす人の塩梅でそれらしく見せなければいけない。このように、必然か偶然か、人形の構造自体もまた文楽に近い。

ただし、文楽がより細やかな表情、仕草を表現し得るために、指や目、眉を動かすといった細やかな仕掛けが施されているのに対し、A子は大きな口を上下にパクパク動かす程度だ(指も曲げられるが瞬時に動かすことはできない)。また文楽は普通の人間のプロポーションと比較すると、頭を小さく作っている。それに対してA子の頭は胴体に対して大きめである。

この差は、文楽とシッキンの舞台の性質の差によるところが大きいと考える。つまり、文楽は心中物や子供を犠牲にしなければいけない武士の苦衷など、悲劇的なシーンを演じることも多く、そうした場面においてより一層の美しさ、繊細な感情の機微を表現しようとした追求した結果、より優美なプロポーションが与えられたのではないかと思う。
一方のシッキンの舞台は「超踊る喜劇(コメディ)」であり、教育番組やテーマパークで見る(着ぐるみの)キャラクターのような親近感を抱かせるキャッチーさも備えているのが良いだろう。A子は29歳の設定だが、その顔の表情はNHKでよく見る口をぱっくり開ける人形と同じで稚気に溢れる。

「人形」と「人間」の関係性

ここまでは眼に見える部分(人形の形状、人形と人間のフォーメーション)について述べたが、次はその「人間」と「人形」の関係性を整理してみよう。「人形」と「人間」が出てくるコンテンツは様々あるが、恐らくそれは次の2つに分けられるであろう。

①「人間」と「人形(キャラクター)」が共存
テーマパークや幼児向けの教育番組では、往々にして着ぐるみを着た(というと顰蹙を買いそうだが)キャラクターと人間たちが一緒に踊ったりしているし、2次元の物語でも例えば『ドラえもん』や『くまのプーさん』などの世界では「人間」と「人形(もしくは人間以外のキャラクター)」が共存している。人間がキャラクターを操作することはなく、キャラクターは独立して動く。

②「人形」を動かすために「人間」がいる
文楽をはじめ多くの人形劇の場合、「人間」は「人形」に従属している。登場人物は全て人形で、同じ世界に人形と人間が共存はしない。「人形」を動かすための「人間」がいるのみである。そのためほとんどの人形劇では舞台上に「人間」の姿を見せないようにするのだが、文楽では堂々と「人間」の姿が舞台上に出ており、人形を操作する様が観客から見える点が、人形劇の中でも文楽が特異である点である。そして、今回私や多くの視聴者がシッキンのパフォーマンスを観て直観的に「人形劇」ではなく「文楽」と感じた一番の理由もここにあると言える。

さて、ではシッキンの場合はどうかというと、「人形」を操作するために「人間」がいる、という点では文楽と共通するし、リハの配信で創作した範疇であれば、概ねメンバーは”人形遣い”の役割に徹している。しかし、パフォーマンスの随所で、人形を動かすだけでなく本人たちも踊り、A子という人形を中心としてダンスの構成を付けている点で、①の「人形」と「人間」が共存する世界でもある。つまりシッキンとA子の関係は「①と②のハイブリッド型」という第3の関係性となっている。

この①と②の違いは、敢えて言うなら「世界の構造」そのものだ。ディズニーランドでいきなりキャストの一人がミッキーの手足をとって動かし始めるなんてことはしないし、文楽や人形劇で、人形遣いが突然物語の中に入って人形たちと話すことなどしない。その絶対的に異なる「世界の構造」をシッキンは何の違和感もなく、軽やかに、自在に行き来する。

写実性と様式化

人形の人間の関係という構造そのものについて整理した次は、パフォーマンスそのものに注目する。文楽については、ドナルド・キーン氏の『能・文楽・歌舞伎』(講談社学術文庫)の「文楽」の章を参照した。

文楽の写実性・様式化

キーン氏によれば、文楽が世界中のあらゆる人形劇の中でも特異かつ傑出した点に写実性と様式化の両立を挙げている。

 文楽は脚本に多くの文学上の傑作が書かれた、世界で唯一の人形芝居である。(中略)西欧と違って、文楽がどんなにまだ粗雑なものだった時代にも、それが子供などの幼稚な頭の持ち主が目当ての芝居と考えられたことはかつてなかった。(中略)その発達の各段階で脚本や、人形の構造や、音楽に見られる向上の他に、監修により多くのことが要求されるということが常に伴っているのが認められる。つまり、写実主義に向かって一歩進められるごとに、その反対の様式化に向っても、やはり一歩進められたのであって、それは文楽の仕事に携わっている人たちが観衆を写実で食傷させる危険をよく心得ていたかのようなのである。

ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』(講談社学術文庫) ※太字は筆者による

要するに、人形を「人間らしく」するために人形の細工や動かし方などに改良をしても、その「人間らしさ」の追究だけでは客は飽きてしまう。文楽が「人形がまるで生きているみたい‼」という驚嘆で終わらなかったのは、「人間らしく」という写実性を求める一方で、その動きは人間のそれよりもさらに強調された「型」を創出したり、それまで舞台の下に隠れていた人形遣いが舞台上に姿を見せたり、また登場人物のセリフも全て義太夫が語るようになったりという「様式化」も同時に進められていたからということだ。

「人間らしく動かす」という写実性を追求することで、人形であってもまるで人間がその場で演技をしているかのような錯覚(没入感)を抱かせつつも、様式化された舞台演出によって虚構ならではの美を創出し、観客にイリュージョンを見せるのである。

興味深いのは、キーン氏が本書の中で指摘しているように、人形遣いが姿を見せるといった虚構性の暴露(様式化)が、近松門左衛門による『曾根崎心中』といった庶民の日常生活の中で起きた事件を題材にした作品が発表された時期というということだ。それまで物語の内容自体が荒唐無稽なファンタジックなものであったのが、より庶民のリアリティある世界を描くようになるにつれて、語りの文章はより文学としての洗練さ、技巧さを増していき、人形遣いは姿を見せて人形の「虚構」を全面に押し出すようになることだ。

話の内容と人形の動きに写実性が加味され、そのリアリティある世界に引き込むために、演出は「様式化」される…言葉にすると矛盾するかのようなこの両方のベクトルが、互いに引っ張り合って、舞台の上に見事な緊張が生まれたことで、人々は人形の一挙手一投足に熱狂したのかもしれない。

A子のダンスの写実性・様式化

前述のように、人形を使った演劇においては写実性・様式化の両立が1つのポイントとすれば、シッキンの場合、A子のダンスにおいてそれらの用件はどのように満たしているだろうか。

まず写実性という点では、ダンスの振りのクオリティではないだろうか。設定ではダンス初めてという事になっているA子だが、シッキンが動かすのだから、そりゃ音の取り方、緩急の付け方が経験者レベル‼(笑) A子の振り付けも単純な中にも、パートごとの振りや展開に、当たり前だが”シッキンらしさ”が凝縮されている。そこに人形の”幼稚さ”というものはない。

そして様式化という事だが、そもそもダンスが日常生活における人間の行動や感情表現の様式化と言えるだろう。例えば失恋して傷心した場面をダンスで表現するとして、部屋で独りずっとベッドで落ち込んでいる姿でいても、それではダンスにはならない。そのときの状態の本質的な部分を抽出し、象徴したポーズを振りにして表現する。「様式化」という言葉がピンとこなければ「抽象化」すると言い換えてもいいかもしれない。

さらにA子の踊りの場合、それに加えて人間では決して自力ではできない重力に抗って宙に浮いたり、驚異の跳躍を見せたりすることも可能だ。そうした誇張表現は言うなれば「型」であり、キーン氏の言うところの「様式化」と通じるであろう。

ダンサー=人形!?

そうツラツラと考えていると、ふと「ダンサーも言うなれば人形では?」という考えが過った。

文楽ではナレーション的な地の文も登場人物のセリフも全て義太夫が語る。三味線の音と義太夫の語りに合わせて人形は動く。現在の文楽においては人形遣いはセリフを言うことはないし、義太夫の語りなしに人形だけで物語が進行するということもない。

これをシッキンの舞台に当てはめるなら、「音楽=義太夫&三味線」ということで、音楽なしにはダンスという表現が成り立たない(一時期”無音ダンス”で賞賛されたとは言え)という点において、「ダンサー=人形」と言うことが可能ではないだろうか。

そしてシッキン(ダンサー)自体が「人形」であるからこそ、前述した「世界の構造」を自由に行き来できるのだと思い至った。彼らはA子を「人間」として操ると同時に、「人形」としてA子と同じ世界の中に入り共に踊ることができるのだ。

これが文楽とシッキンの大きな差なのだ。文楽の人形遣いが「人形」に対して「人間」として操るのみの身体しかないが、ダンサーであるシッキン4人の身体は音楽さえあれば「人形」にもなれるのだ。

おわりに

ここまで思うところをツラツラと書いてきたが、振り返れば当初に抱いた疑問の「なぜ”文楽”に似てると思ったか」という点についてのみとなった。この問題は言うなれば「人形と人形遣い(シッキン)」の関係についてであり、「なぜ人形が動くという事に魅力を感じるのか」というのは、今度は「人形と観客」の問題であるように思う。これについても断片的に「こういうことが言えるのでは?」と思う事があるので、また改めてその点についてはまとめたいと思う。

その際はまた私の徒然なる駄文にお付き合いいただけると幸いです。

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