1月17日。埼玉県立近代美術館「野島康三と斎藤与里」と、うらわ美術館「約束の場所で」展をハシゴ。(本当はその前に大宮にあるさいたま市盆栽美術館も行ったけど。)
どちらも18日が閉幕なので、すでに展覧会は終わってしまったのだが、備忘録として紹介する。
埼玉県立近代美術館「野島康三と斎藤与里」

写真家・野島康三(のじまやすぞう/1889-1964)と洋画家・斎藤与里(さいとうより/1885-1959)はどちらも埼玉県に生まれ。同じ県に生まれ、同時代を生き、ジャンルは違えどともに己の信じる芸術を模索した2人に焦点を当てた展覧会。当時の芸術界の動向を踏まえながら、2人の作品の変遷を追う。

学生時代は日本美術史(近世)を専攻しており、今も観に行く展覧会の比率は圧倒的に日本美術が多いので、この2人のことはほぼ無知。いや、無知であった。

ポスターにも使われている斎藤与里のこの作品。タイトルが《法々華経》。「ほうほう、けきょう…ほーほーけきょう…ホーホケキョ!?」
法華経とウグイスの鳴き声「ホーホケキョ」を掛けていることに気づいたら、瞑想的な女性は、春の暖かな陽射しを浴びながら微睡むように見えてくる。「聖」と「俗」が1人の女性の姿で表したユーモアのセンスがいい。さりげない名作。

野島も斎藤も、時代ごとに作風がどんどん変わり、本当に同じ人なのかと思う位に違う。特に写真に関しては、時代としても「写真で何ができるか」ということを様々な写真家たちが模索した時期でもある。個人的には、印画紙に直接物を置いて感光させる手法による《チューリップ》や《ススキ》が気に入った。特に《ススキ》は川端龍子の《草の実》的で、秋のうら寂しい感じがして好みの作品。

屋外彫刻も美術館の楽しみ
美術館の周囲の公園には様々な屋外彫刻があるので、こちらもお見逃しなく。


ミュージアムカフェ
美術館館併設のカフェでは、ランチ・スイーツが楽しめる。私は特製カレー(1100円)を注文。スパイシーなルーにゴロっとしたお肉がたくさんあり、ボリューム満点!
+550円のセットをつけると、ミニサラダ・コーヒー(or紅茶)・焼き菓子も。


うらわ美術館「約束の場所で」展

うらわ美術館の「約束の場所で」展。本をテーマに作品を収集するうらわ美術館ならではの展示。「本」という形状・素材、メディアとしての役割、存在意義…様々な側面を浮かび上がらせる本好きにはたまらない展示だった。
柄澤齊《書物標本Susanna》
本展は基本撮影NGだが1人1点だけ、自分にとってのブックアートと思う作品だけ撮影OK。
悩んだ結果、柄澤齊(からさわ・ひとし)の《書物標本Susanna》に。「本」によって未知の世界を知る、その薬にも毒にもなる、妖しく魅惑的な感覚を官能的に表した本作。


17~18世紀の羊皮紙の手紙を貼った箱に、古書のページが収められ、その中央に小さな貝殻が挟まれている。貝殻は「女性美」「豊穣」の象徴であり、旧約聖書『ダニエル書』のスザンナを暗喩している。
(展覧会解説より一部抜粋)
私は小学生の時、日曜日の午後は自転車で行ける範囲にある本屋を巡っていた。何をするわけでもないのだが、本屋の中を徘徊するのが好きだった。1冊1冊、開けばそこに未知の世界がある。その世界は平和な世界かも知れないし、ダークな世界かも知れない。薬にもなれば毒にもなる。そして知ってしまった以上、「知らない」状態には戻れない。
この作品を観た時、私がワクワクしていたことはこういう事だったのかと気付いた。「知る」ということは、「処女喪失」でもあるのだ。「知らない」世界には戻れない。「知りたい」という欲求。「知る」ことの官能。その甘く、時に美しく、時に危険な欲望と、魅惑的な世界の入り口。それを最小限の要素で端的に表したこの作品が、私にとってのブック・アートだ。
西村陽平 《記憶と時間-岩波文庫の焼成からの断片的な考察》
1人1点までなので、本来なら柄澤の作品1点のみで撮影を終えなければいけないのだが、どうしても、どうしても、もう1点だけ、甲乙つけがたい作品があり、監視員さんに「すみません!!!!!」と心の中で懺悔しつつ撮影したのがこちら。

西村陽平のこの作品、一見したら「珊瑚の化石?ティッシュ?」と思うかもしれないが、実は、様々な時代に出版された岩波文庫を、特殊な技術で焼成したものなのだ。すべて同じように作られているように見える「岩波文庫」でも、時代によって微妙に紙やインクの素材にも違いがあり(もしかしたら文字量も関係する?)、それにより、これほどまでに姿が異なるのだ。

この2作品に限らず、様々なアーティストによる「本」の解釈はどれも面白く、唸るものばかりだった。「知る」と「感じる」ことの最大公約数、これを私は追求したいと思っているのだが、ブック・アートはまさにそんな展示だった。

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