s**t kingz DANCE LIVE 2025 in日本武道館「LANDING」レビュー(1)

エンタメ

s**t kingzが再び日本武道館のステージに立つ。2023年、武道館史上初のダンサー単独公演を実現した彼ら。それはダンサーとして「歴史的瞬間」であった。「伝説作るぞー」と叫んだリーダーのshoji。ライブの後半では、「これを当たり前にしてく」と4人は8000人の観客に誓った。

それから2年後。本当に彼らはその約束を果たした。
しかも2日間という新たな挑戦を自分たちに課して。

オープニング

初日の朝8時。この時は本当に午後から雨が降るのか不思議なほどだったが…

今回のテーマは「LANDING(=上陸)」。未開の地へ上陸する、ダンサーとしての開拓者であり続ける彼らの姿勢を表現している。また先立って行われた全国ツアー「s**p」では、「船」と「〇〇シップ」をかけ、全国を旅してダンスを通して心を通わせる、というものだった。そして、その旅の終着地として日本武道館に”上陸”する、というのがこの「LANDING」のコンセプトだ。

ステージにはギザギザの形をした白い布が吊るされ、「船旅」のイメージをわずかに想像させる。そしていよいよ開幕。

白い布に、雷がとどろく映像が映し出される。激しい嵐の中、暗闇からわずかに4人のシルエットが確認できると、それだけで会場から歓声が沸き起こる。

さぁいよいよシッキンが登場す……?????

観客が目にしたものは、全身を布で覆った4人の姿。ボロボロになった衣装を身にまとい踊る姿は、旅路がどれほど困難であるかを物語る。「s**p」 の船旅は「皆で楽しく踊りながら旅しようぜ!」という一貫してポジティブな世界観で構成されていた。その「船旅」というコンセプトは引き継ながら、その旅路のイメージは武道館でガラリと変えてきた。繋がっていながら、独立している物語。

最初、彼らがまとう衣装は「過酷な旅でボロボロになった」と解釈した。しかし、オープニングのダンスが終わり白い布が落ち、大きく掲げられた「LANDING」の文字をバックにして立つ4人が、カラフルで煌びやかな衣装へと変わったのを見ると、先ほどの「白い衣裳」は、もしかしたら「自分の身体にまとわりつく”困難”そのものなのかもしれない」とも思えた。

どちらが正解ということではなく、そのどちらもイメージできるようにしているのだろう。彼らの舞台『HALLO ROOOOMIES!!!!』でも、彼らのメイン衣装は「ゴミ」であり「白衣(しろご、いわゆる黒衣の白バージョン)」というダブルミーニングな衣装だった。なので今回も、困難を乗り越えてきた「鎧」であり、あるいは「困難」そのものでもあると思いたい。

そうした困難、しがらみ、無理解……彼らの足取りを重くする一切を脱ぎ捨てると、スパンコールやラメでまばゆく装飾されたジャケット姿の4人が立つ。

いよいよ本当にs**t kingz の登場だ。

『Get on the floor feat. MaL , ACHARU & DREAD MC』

その最初の一曲を飾ったのは、『Get on the floor feat. MaL , ACHARU & DREAD MC』。shojiプロデュースで制作されたこの楽曲は、当時シッキンの楽曲中の中でも特に運動量が多いとして、メンバーから(愛のある)「やりたくない!」というお墨付きを得ている楽曲(それゆえかファンにとっては中毒性が高い一曲)。

「s**p」ツアーではメドレーのうちの1曲としてハイライトとなる部分だけをパフォーマンスしていた。個人的なことだが、実は「s**p」の千穐楽後に前回の武道館公演のDVDを見直して、「フルバージョンやっぱり良いなぁ。大変って言ってたし、これもうフルではやってくれないのかな」と思っていたので、1曲目でこの曲が来た瞬間は雄叫びを上げたよね。シッキンが凄い人たちだって思っているはずなのに、いつも私が想定するシッキン像を超えてくるがゆえに、結果的に「私シッキンを見くびってしまってた!」と思うことが多々あるのだが、今回も1曲目でそれを感じた。

すみません。「体力的にこれをフルではもうしないのかな」とか思ってすみません。そうだよね、そんなこと「うちのshoji」が許しませんよね?

『SMOKE』

冒頭からフルスロットルで踊ったと思ったら、次は『SMOKE』で「男の色気」をこれでもかと見せつける。サビの決め手となる「SMOKE」に合わせて4人がタバコの煙を出す度に、面白いように湧く。シッキン4人も踊りながら、さぞ「こいつらチョレ~な」と思っていることだろう。

そうだ、チョロいのだ。「チョレ~女」なもので、本楽曲については、基本何も考えていないので「ひぃぃぃ色気が駄々洩れ!!!!」以外の感想もなければ、しがたって考察もない。「s**p」の時には、もう少しマシな感想を書いていたかも、と一縷(いちる)の望みをかけて過去の記事を見てみたが、ほとんど同じことしか言ってなかった。

無理して何か1つでも付け加えるなら、「男のタバコを吸う仕草」の色気は、滅ぼしてはならないということだろう。受動喫煙への配慮がなされる社会は私としては歓迎ではあるが、「男のタバコを吸う仕草」の色気はこの世界からなくしてはいけない。いいか、江戸時代より続く歌舞伎だって煙管(キセル)が芝居において良い働きをするんだよ。あれがあるのとないじゃ「芸の色気」が格段に変わる。弁天小僧が泣くぞ。

…話がシッキンから離れてしまった。とにかくエンターテイメントの世界において、「タバコを吸う仕草」でしか表現できない色気があるということは肝に銘じておきたい。そのことをこの令和7年の今、改めて証明してくれたシッキン、ありがとう。

『MORECHAU feat. edhiii boi, Janet 真愛中, JIMMY(PSYCHIC FEVER)』

ここで一度shojiが会場を煽る。「武道館を日本一、世界一のダンスフロアにするぜ!」と高らかに宣言すると、あの曲が始まる。『MORECHAU feat. edhiii boi, Janet 真愛中, JIMMY(PSYCHIC FEVER)』。「ダル着にサンダル」というキャッチーな歌い出しで始まるこの曲は、「カッコよすぎて漏れちゃう」がコンセプト。そもそも「s**t kingz」というグループ名自体「(自分たちのパフォーマンスで)お客さんをシッキンさせる」が由来になっているから、言ってみればシッキンの「ステートメント」でもある。

両手を合わせた「モレチャウ」ポーズのキャッチーな振りで、観客も一緒に踊る。キャッチーな振りとハイレベルなダンスの掛け合わせが、聞けば聞くほど、見れば見るほどクセになっていく。

怒濤の3曲が終わり、ここでオープニングMC。たった3曲で観客を圧倒するパフォーマンスをぶちかました4人の雰囲気が、話し出すとガラッと変わる。このギャップがたまらない。人柄の良さ100%、いや4人だから400%のMCの後は、「s**t kingz のダンスは色んなバリエーションがある。次もさらに雰囲気を変えていくぜ!」とアナウンスしてから暗転。

NOPPOソロ(『Light』)

そして浮かび上がる一人のシルエット。NOPPOのソロ(『Light』)だ。今回のソロパフォーマンスは、「s**p」ツアーで初披露された。赤いスカーフを操りながら踊る様は妖艶で、それは男性的であると同時に女性的でもある「両性具有」のような蠱惑的な妖しさと危険さを帯びている。「s**p」 では会場が狭い分、冒頭では自身のシルエットを両サイドの壁に投影する神秘的な演出で、私はそれを「修道女」とたとえた。手の振りだけの禁欲的なダンス(というよりも仕草に近い)がその印象を一層強めた。だからこそ赤いスカーフを持って次第に激しく踊っていく様子も、「観る者を誘惑する”支配者”であると同時に、(赤いスカーフに)踊らされている”被支配者”」のようだと感じた。

しかし、武道館ではNOPPOの動きに合わせて照明が次々と変わり、まるで照明を操っているかのようで、「支配する側」そのものだった(武道館ではスカーフで目を覆う振りがなかったように思うが、それも「操られる側」の要素を削っていったからなのか)。いずれにせよ、その長い手足のシルエットを生かして艶めかしく踊る姿に、心を奪われずにはいられない。狂わずにはいられない。悲鳴にも近い歓声が湧く中で、私は声を奪われた人のように息をのむばかりだった。だが、私は密やかにそれこそがこの作品の味わい方だと思っている。彼が放つ色香に対して、歓声を上げて発散させてしまうのはもったいない。全て自分の内側に取り込みたい。彼の魅せるダンスも、視線も、仕草も、そこから醸される一切の空気も、すべて自分の体の中に飲み込んでしまいたい。そんな欲望を抱いて魅入る私こそ、もうすでに彼の術中にはまり「狂わされている」のだろう。(と言いつつ、やっぱり私はラストのシャツを脱いで拳を突き上げる終わり方だけは好きになれない。夢の醒め方に余韻がなく、”興醒め”に近い感覚になってしまうのだが…)

Oguriソロ『I Won’t Say Goodbye feat. KAIKI 』

そんな狂おしい「つかの間の永遠」の後は、舞台中央のセリを使って、階段を昇ってくるように現れるOguri。かつて自身のソロパフォーマンスとして発表した『I Won’t Say Goodbye feat. KAIKI』をアレンジし、全く新しい物語をつむぐ。

何かに釈然としないような様子で現れたOguri。じりじりと西日が差す、あの妙に暑くてイライラしてしまう時間の中で、一匹の虫(蚊か?)が首筋にとまる。反射的に叩くが逃げられしまう。それを追いかけるOguri。しかし虫はそんなOguriを嘲笑うかのようにその手をすり抜ける。虫が「逃げ」Oguriが「追う」側だったのに、いつしかOguriが虫にまとわりつかれ、翻弄され、その関係性は逆転する。

やがてステージに脱ぎ捨てられていたジャケットを羽織り、Oguriは軽やかにロックダンスを踊り出す。ステージに上がる者の「オモテ」と「ウラ」。言い換えれば「実」と「虚」だが、では一体どちらが「実」で、どちらが「虚」なのか。人前に立つ姿は「オモテ」であるが「虚」。1人の人間としての姿は「ウラ」だけれども「実」。その世界を行き来する人間の苦悩が、切なく胸を締め付ける。

「ステージのスポットライト」から遠ざかったOguriの首に再び虫が止まる。今度は仕留めることができたそれを、じっと見つめた後おもむろにそれを口の中に入れる。

この「虫」は、ダンサーとして生きていく中での「困難」や「しがらみ」の象徴なのだと思った。最初はそれを嫌がり払いのけようとしたが、後半ではそれをあえて口にする。嫌なものだからこそ飲み込む。嫌なものの苦みを腹の中に落とし込んで生きていく、という小さな、でも確かな決意をして、彼は再び階段を降りていく。

芝居仕立てなOguriのソロだが、来年に能をオマージュした舞台(『未練の幽霊と怪物』)が控えていることを踏まえると、彼なりの「能」にチャレンジしたのではないかと思うのは、見当違いな勘繰りだろうか。階段を昇るようにして現れ、最後に降りるように去っていく演出は、能の橋掛りを思わせる。また途中で衣をまとい踊るのも、能の演出に近い。能や歌舞伎において「衣をまとう」ことは、それにより別の役柄になったり、あるいはその衣の本来の持ち主を思って舞うことが多い。なので、今回の構成や「衣をまとう」ことの意味合いが完全に能と一緒ということではないのだが、「オモテ」の自分と「ウラ」の自分を別人格と捉えた、彼なりの「能」的表現と捉えることもできるのではないだろうか。

続く。

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