年末恒例の「今年の展覧会ベスト10」。
2025年の展覧会ベスト10を発表します!
展覧会の内容については、私が美術展情報サイト「アートアジェンダ」で執筆したレポート記事、もしくは過去のブログ記事のリンクで紹介とさせていただきます。
(ベスト10の順番は順位ではありません)
泉屋博古館東京「死と再生の物語(ナラティブ)」展

青銅器などに表された文様やモチーフをひも解く展覧会。古代中国の思想・宇宙観(天文知識)・政治観・美術が三位一体となっていたことを体感できる、上質な展覧会でした。個人的には特に会期中のイベントのクロストークが大変面白く、展覧会の理解がぐっと深まったこともあり、今年の展覧会の中でも特に印象に残っている展覧会でした。
パナソニック汐留美術館「ルドン展」

ルドンほど、その画風のイメージが二極化する画家もいないのではないかと思っており、不可思議で奇妙な生き物たちが描かれた「黒」をイメージする人もいれば、カラフルな「色彩」で花などを描いた幻想的な作品をイメージをする人もいるだろう。
黒から色彩へーーその両極端な画風の変遷をたどり、ルドン芸術を堪能することができる展覧会だった。
東京国立近代美術館「記憶をひらく 記憶をつむぐ」
美術が、戦争で何を描いたのかーー。時にその非道さを訴え、時に侵略の戦略に組み込まれた「美術」。どの国も戦争においては「加害国」であり「被害国」であるが、その双方の視点で、また美術が戦争に「加担する側」でもあり、「犠牲となる側」でもあったことを、様々な作品、資料で浮かび上がらせた展覧会。
展覧会の内容を充実させることを優先するため、ほとんどの広報活動をせずに、その費用を展覧会の開催にかかる費用にあてたという実情がSNSで話題となった。国立の美術館の矜持を体現した展覧会だったと言える。
碧南市藤井達吉現代美術館「川端龍子展」

「会場芸術」を掲げた川端龍子の芸術性を全身で体験できる展覧会だった。個人的に好きな画家で、大田区立川端龍子記念館にも何度も行っているが、まだまだ出会っていない作品がたくさんあったと痛感した。
龍子の代表作が集結した最初の展示室の圧巻の空間も見ごたえたっぷりだったが、後半の《龍子垣》、《阿修羅の流れ(奥入瀬)》、《都会を知らぬ子等》の3作をまとめて展示した展示室は、まるで龍子芸術の「真・行・草」を表しているようで印象的だった。
東京都美術館「ミロ」展

個人的に今年は「ミロと出会った年」といっても良いくらい、この展覧会でミロという画家の人生、そしてその芸術世界を知る機会となった。
特に《星座》シリーズの3点の作品を観ることができてよかった。戦禍の中で描いたという背景を知ると、「子供の落書きのよう」と形容されることの多いミロ独特のモチーフが、夜空にまたたく星のように、その光と光を結んでできる星座のように、永遠に輝き続けるのだろうと思うとグッとくる。
世田谷美術館「横尾忠則 連画の河」

長年、日本の現代美術の第一線にいる横尾忠則、巨匠たる横尾の最新の芸術がほとばしる展覧会。生生流転する横尾芸術の「今」。浮かんでは消え、消えては浮かぶ”うたかた”のように、日々溢れ出る創作イメージを絵にした「連画」シリーズ。「連歌」の在り方を絵画で試みた意欲的なシリーズで、老いてもなお、むしろさらに自由になっていく横尾芸術に圧倒された。
府中市美術館「橋口五葉のデザイン世界」

装幀の魅力を存分に味わうことができた展覧会。「夏目漱石に橋口五葉あり」と思わずにはいられない。本を箱(ケース)から取り出す時、表紙をめくる時、1枚1枚ページを繰る時、まるで玉手箱を開いて宝物を取り出すようなワクワク感を感じさせる五葉の装幀。とても贅沢な体験だったことだろうと、うっとりしてしまう時間だった。
ロビーに設置されているフォトスポットや、図録カバーにもなる「五葉装幀双六」など、来場者が楽しめる企画も用意されていて、美術をもっと身近に感じてもらうための工夫も素晴らしかった。
畠山美術館「『数寄者』の現代―即翁と杉本博司、その伝統と創造」

畠山美術館には今回初めて訪問。前半の即翁の旧蔵品(実際の茶席の道具組をできる限り再現した展示)の贅沢さに、後半では杉本博司の美意識が存分に発揮された展示で、時代を超えた2人の「数寄者」の茶席に招かれたような展覧会。
三菱一号館美術館「ビアズリー展」

2025年で一番「待ってました!!!」な展覧会。期待値を上げ過ぎると、実際の展示を見て「こんなもんかぁ」となることも時々あるけど、その期待値をちゃんと超えてくる。
代表作の「サロメ」他、イエローブックや初期作品、ビアズリーの画風の形成に影響を与えた作品、また「耽美的な物語」に語られがちなオスカー・ワイルドとの関係性もきちんと説明されており、「画家オーブリー・ビアズリー」の姿を追求した展覧会。
大阪中之島美術館「上村松園展」

「上村松園」展のみ、レポート記事およびブログ記事がありません。そのかわりに「note」で連載しているコラム記事(少しだけ「上村松園展」にも触れています)のリンクを貼っておきます。

西洋美術の分野では「今年はミロと出会った年」だとするなら、日本美術では「上村松園に出会った年」としたい。もちろんこれまで様々な展覧会で松園の作品には触れてきたが、これだけまとまった形で観ることは初めてで、それ故に松園が描いた女性の姿、生き方に、まるで初めて出会った作家のような衝撃を受けた。
松園が描く女性の美しさは、他者からの眼差しに晒される(他者に評価される)「美人」ではなく、女性自身の生き様がにじみ出るもの。だから私は松園の描く「美人画」は「美しい(容姿の)人」ではなく、「美しくある人」であると思う。


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