【レビュー】「メメント・モリと写真」展@東京都写真美術館

美術

現在、東京都写真美術館で「メメント・モリと写真」展が開催されています。

「死を想え」を意味する「メメント・モリ」。美術の世界では、中世ヨーロッパの絵画作品などで、世の無常、儚さを表すテーマとしてしばしば目にする事もあるでしょう。しかし、「死」というテーマはいつの時代においても人々にとって関心を持たずにはいられないものです。特にこの数年、新型コロナウイルス感染症の猛威によって、「死」が身近に忍び寄ってくる恐怖を感じた人も多いでしょう。

未曽有の天災に見舞われた私たちにとって、今「メメント・モリ」はどういう言葉として響いてくるのでしょうか。そして、写真はどのようにして「メメント・モリ」ーー死を想うのでしょうか。

展覧会のテーマ

この展覧会のテーマについて、HPの文章を見てましょう。

本展は「メメント・モリ」をテーマに、人々がどのように死と向き合いながらも、逞しく生きてきたかを約150点の写真作品から探り、困難を伴う時代を前向きに生き抜くための想像力を刺激します。ラテン語で「死を想え」を意味する「メメント・モリ」は、人々の日常がいつも死と隣りあわせであることを示す警句でした。この言葉は、ペストが大流行した14~17世紀の中世キリスト教世界において、骸骨と人間が踊る様子を描いた「死の舞踏」と呼ばれるイメージと結びつき、絵画や音楽など芸術作品の題材として広く伝播していきます。一方で、写真もまた、死を想起させるメディアであることが数多くの写真論の中で度々言及されてきました。

 本展では、ウジェーヌ・アジェ、W. ユージン・スミス、ロバート・フランク、マリオ・ジャコメッリほか19世紀から現代を代表する写真群から「メメント・モリ」と「写真」の密接な関係性を再考します。

展覧会HPより

序章|メメント・モリと「死の舞踏」

展覧会では、まずハンス・ホルバイン(子)による版画『死の像』の作品群が展示されています。小さな画面それぞれに、王侯、王妃、金持、老人、聖職者といった様々な身分、立場の人物が描かれた作品です。そして、彼らの傍には必ず骸骨の姿が描かれています。

この作品の面白さは、生者と骸骨の関係の違いでしょう。老女や老人に対して、骸骨はまるで寄り添うような素振りですが、幼子に対して骸骨は連れ去るように手を引いてます。

あるいは、国王の周りには侍るように骸骨がいれば、聖職者の周りの骸骨は部下のように共に働く印象を受けます。骸骨に対して目を背けようとする侯爵がいれば、王妃に近づこうとする骸骨を周りの者がけん制しようとしている様子も見て取れます。

年齢、身分(階級)、貧富…それぞれの立場によって「死」がどのような存在としてあるのかを端的に表現すと同時に、「死(=骸骨)」は、それを理解する/しない(受け入れる/受け入れない)にかかわらず、残酷なほどに平等に、全ての人間に訪れることを示唆しています。

よもつ
よもつ

この展覧会がこの作品からスタートすることは、「メメント・モリ」というテーマにおける、”古典作品”を見せるという意味だと思いますが、私はそれと共に、鑑賞者に「死」というものの本質(すべての人に訪れる未来/いつ訪れるかは選ぶことはできない)を端的に示しているように感じました。

第1章|メメント・モリと写真

第1章では、「写真は全て死を連想させるものである」というスーザン・ソンタグ(『写真論』晶文社)の言葉を引用しながら、戦時下、あるいは災難に見舞われた人々の姿を捉えたロバート・キャパ、澤田教一、セバスチャン・サルガドらの写真や、ホスピスでの人々を撮影したマリオ・ジャコメッリの作品を展示します。

ロバート・キャパ《オマハ・ビーチ、コルヴィユ・シュル・メール付近、ノルマンディー海岸、1944年6月6日、Dディに上陸するアメリカ軍》は報道写真としてあまりにも有名な1点です。

セバスチャン・サルガドのエチオピアで飢饉による集団移動をする人々の姿を撮影した写真(《コレム、エチオピア(砂漠の4人)》や《エチオピアのティグレ地方からスーダンへの集団移動、エチオピア、1985年》)は、まるでミュシャの《スラヴ叙事詩》を彷彿とさせるようなドラマティックで壮大なスケールを感じさせます。

あらゆる理由によって「死(あるいは死ぬかもしれないという状況)」に直面した人々の姿が映し出された作品には、撮影者の祈りの思いさえ閉じ込められているかのようです。

転用していく「メメント・モリ」

またこの章で掲示されている、藤本新也による「メメント・モリとは何か?」という文章では、「メメント・モリ」という言葉の意味が、時代によって変化(転用)していることに注目しています。

つまり「メメント・モリ」は、元々の古代ローマの時代では「死が訪れる、故に今を楽しく生きろ」という享楽的なメッセージでした。

日本の「浮世(=どうせこの世は仮初め、だから楽しめ)」という発想と近いですね。

しかし、キリスト教的な道徳観によって「メメント・モリ」は、「栄光、栄華、この世での贅沢は空虚なものにすぎない、故につつましく生きろ」という教訓へと移っていきます。藤本はこの意味の転用の歴史を振り返り、さらに今の時代において新たなフェーズの「メメント・モリ」へ転用していくことを示しています。

東日本大震災、それによる原発事故、新型コロナウイルスの災禍、ウクライナ侵攻などの災害、事件を踏まえ、次のように「メメント・モリ」という言葉について語ります。

かつてのようにヒトがヒトに対して発した標語ではなく、資本主義社会のひとつの結末として環境破壊をはじめとする自然の崩壊の側からのニンゲンに突きつけられた渓谷に変容している。

藤本新也「メメント・モリとは何か?」(展覧会バナーより引用)

「メメント・モリ」の意味が変容し、それまで人が人に向けて発していたメッセージがさらに大きくなり、”自然”が”人類”に対して発する警句としてみなす視点は「なるほど」と思いました。

享楽的⇒徳化という転用だけみると真逆のメッセージになったように見えますが、藤本の視点を踏まえれば、転用というよりは「拡張」と言ってもいいかもしれない。つまり当初の「今を楽しく」というメッセージでは、ヒト一人が考える範囲は「自分ひとり」の事だけだった。それを「慎ましくあれ」という教訓になった時、その視野は「社会全体」に広がっています。そうして、今、藤本の言う「自然の崩壊の側から」の警句という事は、その視野は「(自然を含む)地球全体」となるのです。

マリオ・ジャコメッリの作品が素晴らしい!

(美の履歴書:754)「『自分の顔を撫でる手もない』から」 マリオ・ジャコメッリ 雪の輪舞、まとわりつくのは:朝日新聞デジタル
 夏、とりわけ日本の夏は、むせ返るような若いエネルギーと死者への思いが交錯する。 この写真は冬の日の光景を捉えたものだが、しかし、同じような感覚を呼び覚ます。 雪の上で輪になって踊るのは、イタリア中東…

私が本展に惹かれたのは、マリオ・ジャコメッリの作品が出るから。〈自分の顔を撫でる手もない〉という作品では、修道士たちが輪になって踊る写真なのだが、ここに先ほどの2つの意味をもつ「メメント・モリ」が凝縮されていると感じます。

修道士はまさにキリスト教的「メメント・モリ」な存在なのだが、その修道士たちが楽しそうにダンス(=享楽性の象徴)をすることの意味。先ほどの「メメント・モリ」の意味が転用していくという話ではないですが、ここにはまるでその2つの意味の「メメント・モリ」が両立しているように思えたのです。

言い方を変えれば、この一枚に「死の匂い」と「生の輝き」の2つを感じ、その混じり合った美しさがあるということです。彼らは仕事して「死」を見つめなければいけません。『死の像』ではないですが彼らは職務上、骸骨が側に侍っているような存在です。そんな彼らが楽しそうに踊っている。彼ら自身の「生」は今まさに輝いている!!!

そして、背景がほとんど白トビした強烈な「白と黒のコントラスト」により、文脈(特定の状況、アイデンティティ)が消え、特定の「過去」であったものが、普遍的な一枚へと昇華され「永遠」となっていることも、この作品がより強烈に訴えかけてくる理由の1つでもあるでしょう。

第2章|メメント・モリと孤独

第2章では、「孤独」と「ユーモア」をキーワードに、ロバート・フランク、牛腸茂雄、ウィリアム・エグルストン、ダイアン・アーバス、荒木経惟らの作品が並びます。この章では、人生における「孤独」と、それを克服するための手段としての「ユーモア」の関係を浮かび上がらせます。

この章では第1章のようなドラマティックな雰囲気はありません。一見すると淡々とした肖像写真、あるいは日常の街の風景のようにも思えます。しかし、シャッターを押した瞬間にその光景を「過去」にしてしまう写真には、日常生活の中では気付くことのできない、深い「孤独」を暴き、あるいはその孤独があるからこそ生まれる「ユーモア」に光を当てます。

生きることは…「孤独」との折り合いの付け方かもしれない

実はこの章のテーマの意味が鑑賞中ではピンときていなかったのですが、今こうして振り返っている中で、孤独とは、すなわち”己が己であること”であり、ユーモアとは”生の喜び”と捉えることができるのではと思い至りました。

荒木経惟の〈センチメンタルな旅〉は、新婚旅行中に自身の妻を撮影した作品群ですが、妻の表情はどれも虚ろであったり、己の世界に耽っているようなものばかりで、とても新婚旅行中とは思えません。あえてそう感じさせる構図、表情の写真を撮る事で、たとえ愛に満ちていても、”新婚(あるいは家族)”といった関係の者であっても、人間それぞれには自分以外の誰も踏み込むことのできない深い「孤独」ーーそれはアイデンティティと言い換えられるかもしれないーーを持っていることを示しているようです。

〈センチメンタルな旅〉シリーズの1枚が、船の上で眠るように横たわる女性(妻)を写した写真ですが、船という不安定な乗り物の上で、一人その身を預けている女性は、孤独を抱え、何処へ行くともしれない船に我が身の運命を委ねているように思えてきます。それは決して消極的な「生」ではなく、その不安定さ、寄る辺なさも受け入れて、”己は己”=孤独であることを受け入れるしなやかな強さを持った「生」に感じました。

また、ウィリアム・エグルストンの《ミシシッピ州モートン》は、ベッドに腰掛け朗らかな表情を見せる老人の全身を写した写真ですが、彼の右手にはピストルが握られています。人を殺めることができるピストルは、まさに「死」の象徴。そんなピストルを「安らかさ」の象徴とも言えるベッドに腰掛けてくつろぐ様子のまま握っている違和感にゾッとしました。

これは銃社会であるアメリカと、そうでない日本で受ける印象は異なるでしょうが、これもまた孤独(信じることができるのは己のみ)と、それを保証するピストルがあるが故に見せる朗らかな姿(=ユーモア)を備えた1枚と感じました。「死」がこれほどさりげなく「そこに在る」という感じが、冒頭の『死の像』とはまた違う形で現れた心地です。

第3章|メメント・モリと幸福

最後の章は、この展覧会全体、あるいは「メメント・モリ」という言葉そのものの最終的なテーマと言える「幸福」。ここでは、ウジェーヌ・アジェやヨゼフ・スデックが撮影した教会などの写真や、第二次世界大戦によって灰燼に帰した日本各地の光景を写した東松照明、まさに「メメント・モリ」と題した写真集を発表し、インドで出会った生々しい”生”と”死”に向き合った藤原新也、そして、敗戦後に津軽の地で懸命に生きる人々の姿に生きる勇気を得た小島一郎らの写真で締めくくられます。

藤原信也の「メメント・モリ」シリーズは、本展の中で唯一のカラー写真でしたが、道で果てた男性の遺体の写真、野犬に食われそうになっている死体の写真、川の畔で三転倒立をする男性、花の写真、白骨化した骸(むくろ)‥‥生と死がどぎつい色で、まざまざと私たちの前に現れます。

冒頭、「メメント・モリ」の言葉の意味が変化している(人間が「生」を考える上で思い至る範囲が「個人」⇒「社会」⇒「地球全体」へと広がる)という話をしましたが、「メメント・モリ」とは何か。

科学、医療などの技術は進化し、どんどん「死に難くなっている」と同時に、未だに絶えない戦争、貧困、深刻化する環境問題(自然災害)で「生き難くなっている」とも言えます。

メメント・モリーーー「死は訪れる。故に今を楽しく」

メメント・モリーーー「死は訪れる。故に今は虚しい」

メメント・モリーーー「死は訪れる。故に‥‥」

私たちは、この「故に」のあとに何と言う文句を入れるべきであろうか。それを考えよう、生きるために。

注目のイベント!「メメント・モリと落語」

関連イベントとして「メメント・モリと落語」が開催されます。落語で”死”といえば、「死神」の噺が有名ですよね。その「死神」を含めた落語から、メメント・モリとは何か、体感できるイベントです。

開催日時:2022年8月12日(金) 18:30~20:00
出演者:春風亭柳枝(「死神」ほか一席)、柳亭左ん坊(前座)
参加費:無料
定員:160人
申込期間:7⽉22⽇(金)12:00から8⽉5⽇(金)12:00まで
 ※申込開始後、定員に達し次第受付を終了します。

そのほか詳細・申し込みはこちら

展覧会の概要

「TOPコレクション メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか」展
場所:東京都写真美術館(恵比寿)
会期:2022年6月17日(金)~9月25日(日)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館)
開館時間:10:00~18:00(木・金曜日は20:00まで、図書室を除く)
入場料:一般 700(560)円/学生 560(440)円/中高生・65歳以上 350(280)円 
展覧会HP:https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4278.html

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