林隆行監督『情動』『海の夜明けから真昼まで』

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大学時代の友人、林隆行の映画が上演される。大学生の頃から映画が好きで、当時は「俳優になる」と豪語していた(はずの)彼は、卒業後も映像の制作会社に入り、「いつかぜってぇ辞めてやる。」と会う度に言っては辞めない”辞める辞める詐欺”を繰り返していた。

そんな彼が映画を撮った。そしてそれが「田辺・弁慶映画祭」で若手監督のためのコンペティション部門で審査員特別賞を受賞した。

田辺・弁慶映画祭セレクション2022

テアトル新宿で9月16日~10月6日まで「田辺・弁慶映画祭」のコンペティション部門で受賞した作品が上映されており、2022/9/19-21の3日間、林隆行DAYとして、俳優・吉村界人とタッグを組んだ3部作の映画『人間、その劇的なるもの』が上映されている。

田辺・弁慶映画祭セレクション2022 | テアトル新宿
今年も『田辺・弁慶映画祭セレクション2022』の開催が決定しました!第15回田辺・弁慶映画祭で受賞を果たした若手新人監督にスポットをあて、今回も工夫を凝らしたラインナップで上映いたします! これからの活躍が期待される注目の若手新人監督の作品を、是非この機会にスクリーンでご覧ください。

初日の19日は『情動』と『海の夜明けから真昼まで』の2本の上映だった。

『情動』

新型コロナウイルスの流行でロックダウンとなった東京。一人暮らしで工場に勤めていた守(まもる)は、この影響で職を失う。恋人との結婚の話も宙ぶらりんとなり、一人部屋の中で過ごす。未曽有の恐怖と不安に襲われたこの世界の片隅で、一人の男の精神が少しずつ少しずつ蝕まれていく。そしてあることがきっかけで積もりに積もった鬱屈とした思いが溢れ出す。

私はコロナのせいで仕事を失ったり給料が下がったりなんてしていない。恋人を失う事もない(そもそも恋人がいないが)。境遇としては主人公の守と共通する部分は何もないが、「これは私だ」と思った。

緊急事態宣言で数ヶ月の間、社会全体が動くことを止めたあの時、眼に見えない「死」の存在を、「捕まれば死ぬかもしれない」という不安を感じずにはいられなかった。”普通”に暮らしていたつもりでも、気づけば世界を厭世的に、悲観的に眺め、そして自分の人生に途方もない不安や諦観があった。この映画の主人公である守は、その時に私が感じていたはずの「感情そのもの」を擬人化した姿だ。

物語の中盤、守は配達された出前のカレーライスを何かに取りつかれたように喰う。ボタボタと零していることなどお構いなしに、体の内側から突き動かれるままに、ひたすらかき込む。

何たる汚さ、何たる醜さよ。

それは、自分の人生が思い通りにいかない時に、自分が思っている以上に社会が自分を認めてくれなかった時、不安に押しつぶされそうで、社会を恨みそうで、「なぜこうなった??」と自問自答して腐れていた時の自分の姿、同族嫌悪だ。

日常生活を過ごす多くの人は、実際にカレーをボタボタとこぼしながら貪ることはほとんどないだろう。私もそうだ。しかし、気分の上で同じなのだ。この映画は、そうした自分の奥底に実はひっそりと巣食っている”情動”がむきだしで描かれていた。

『海の夜明けから真昼まで』

田舎の高校生の麻衣は、ある時40代の男に誘拐された。後に解放されるが、学校に復帰するも周囲からの好奇の眼に晒される。一方、同じクラスの氏家は喧嘩を起こすなど問題行動で周囲から疎まれている。田舎の町の高校の1つのクラスーーこの狭く小さな「社会」からはみ出した若い2人は、誰とも分かち合えない思いを抱いて日々を過ごしているが…。

うめざわしゅん原作の本作(オムニバス集「一匹と九十九匹と」所収)、3部作を通しての主演・吉村界人もさることながら、高校生二人の演技が見事だった。氏家役の上村侑は、脆く壊れそうな自分の心を隠すために強がり、牙を剥いて、必死に自分が崩れ落ちないようにする痛々しい姿が、あまりにもリアルだった。そして麻衣役の羽音(はのん)は、高校生とは思えない蠱惑的な眼差しで、作中の登場人物だけでなく観客も惹きつけ、数少ない台詞にもかかわらず、この物語を終始引っ張っていく。

物語の後半、「自分はいつか人を殺す。自分は稀に生まれてしまう、そういう神様の失敗作だ」と言う氏家。本心では退屈しているテレビを「テレビが好きだ」と嘯く姿が素晴らしかった。自分の本質を見透かしてくるような麻衣の眼を見るのが怖くて、自分の本質が露わになって崩れていしまうのを恐れて、自分を保つために必死にテレビを見る。

そして物語のラスト、そんな氏家を連れて防波堤に立った麻衣は「私、泳げないから」と告げて海に飛び込む。氏家は必死に彼女を助けると、麻衣は言うのだ。

「これで一人くらい殺したって、神様もチャラにしてくれる。」

こんなにも優しい救いがあったとは…。原作を読んでいないので、この台詞が原作からあるのか、映画にするにあたり脚本の中で生まれた言葉かは分からないが、「あぁ良い救い方だな」と思った。「自分はいつか人を殺す様な人間だ」という人に対して、「あなたはそんな人じゃない」なんていう、相手を理解しているかのように見えて、実は最も軽々しく相手を否定するようなメッセージじゃなく、「殺すかもしれない」なら「殺してもいいように、贖罪分の善行を作っておいてあげる」なんて…こんな深い優しがあるだろうか。

なぜ映画が、物語が必要なのか

映画を見ている最中、ふと遠い記憶が蘇った。高校生の頃、現代文の模試か問題集で、「なぜ悲劇的な物語が必要なのか」というような趣旨の文章が取り上げられていて、それによると「自分より不幸な出来事が(物語中で)起きていることで、読者にとって救いになる」というような内容だったはずで、それが妙に記憶に残っている。その文章がどういう理屈でそう説明していたかはすっかり忘れたが、体感として納得した。

文学でも音楽でも、それこそ映画でも、「これはまるで自分の事」を表現していると感じると、それが救いになるのだと思う。全く同じ境遇でなくても、同じ”感情”を抱いていたことを物語が表現してくれた時、その抱えていた感情が昇華されるのだと思う。(カタルシスとも言うべきか?)

もう一つ思い出話をすると、私が中学生の頃、1つ年上の姉が「芥川龍之介や太宰治に憧れるっていう人いるけど、その気持ちが全く分からない。自殺するような人に憧れる心理がわからない」というようなことを言っていた。絶賛中二病を発症していた当時の私は、とてもじゃないが「惹かれる気持ちわかる」とは言えず「へぇ」と返事をしたが、その時つくづく「姉は本当に健全な人だなぁ」と思った。

多分私の姉が『情動』のような作品を観ても何ら心が動くことはないだろうなと思う。多分こういう物語が本当に必要ない人生なのだと思う。多少の幸も不幸も含めて自分の人生に納得し、満たされ、楽しむことができている人にとって、多分この映画は必要ない気がする。消防士の仕事が少ない方がいいようなもので、この映画に感動しない方が、むしろ人生としては良いのかもしれない。

ただ、私は知っている。無職になって「自分の存在価値」が揺らいだ時、自分であることが嫌になった。就職先が見つかっても砂を噛んでいるような何の味わいもないザラザラとした感覚が続いた。私は知ってしまった。自分で自分を信じられなくなる辛さを、自分が自分のことを呪ってしまう不幸を、自分であることを諦める気持ちを。しかし、そうした時、様々な物語が、歌が、言葉が、芸術があったからこそ、多分私は死なずに済んだ。殺さずに済んだ。

マツコ・デラックスがバラエティー番組でcoccoが救いだったと話した際、「彼女が私の代わりに何人も人を殺してくれたから私は平穏な気持ちでいられた」と言った。正にそれだ。

『情動』『海の夜明けから真昼まで』もまた、その誰かの救いになる映画だと思う。たとえ約80億人いるこの地球上の人間のうち、79億9999万9999人の人間が、満たされ明るい人生を送っていたとしても、この世界の片隅で、取りこぼされて、忘れられて、上手く息ができなくなっている人が1人いるんだとしたら、その1人のために映画はあるんだと思う。この映画はそんな1人の人間の、今まさに崩れ落ちそうな心を掬い上げる、そんな1本になるかもしれない。

会社は「辞める辞める」と威勢よく言っていた隆行は、映画に携わることに関して一度も「辞める」と言ったことがない(少なくとも聞いたことはない)し、いつも泥臭かった。そんな彼が作った映画は、この世に映画がある意味を教えてくれた。

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