【レビュー】「未練の幽霊と怪物 珊瑚 円山町」

エンタメ

先日、神奈川芸術劇場(KAAT)で千穐楽を迎えた「未練の幽霊と怪物」。初演の時もそのタイトル(と森山未來出演ということ)に惹かれてチケットを取ったものの、コロナによって中止。その後に配信や上演があったのだが、それにはタイミングが合わず見ることないまま終わってしまった。

ゆえに、今回の再演(しかもs**t kingzのOguriさんが出演!)のニュースを知って「これは絶対に行くやつ!何なら通うやつ!!!」と思い、勢いで初日、中日(アフタートーク回)、千穐楽の3公演分のチケットを取った。

舞台の概要・構成

「未練の幽霊と怪物」は、演出家・岡田利規(おかだ・としき)が、日本の伝統芸能である能の上演形態(戯曲の構成)を踏襲し、いわば「現代における能」を作り上げる舞台だ。

能の基本フォーマット

能の基本の構成と登場人物は下記の通り。

シテ(主人公)…演目によって前半と後半で違う役柄になることがあるため、それぞれ「前シテ「後シテ」と呼ばれる。面(おもて)をつけるのもシテ。
※能の世界では「能面」と言わず「面(おもて)」という

ワキ(相手役)…シテの相手役となる役どころ。シテに関係する人物の場合もあるが、通りすがりの僧だったりすることが多い。ワキは基本的に独りだが、ワキの他に関連する人物(ワキツレ)がいることもある。ワキは面は付けない(面をつけないことを「直面(ひためん)」という)。

アイ(狂言)…物語の中盤に出てきて、物語の筋をまとめて、後半の舞台に誘導する役割。いわゆる「狂言師」が務める。

《基本構成》
①ワキが登場して名乗る(自分はどういう人物でなぜ今ここにいるのかを説明する)
②彷徨っていると前シテが登場⇒思わせぶりなことを言って立ち去る
③ワキがアイ(大体、「この辺りに住まいする人」)に話を聞き、かつてあったエピソードが語られる。
④ワキがそのエピソードにゆかりある場所に行ったりなどして後半の場面に移る。
⑤後シテが登場し、思いのたけを踊る

能楽の専門家が読んだらぶん殴られる勢いのざっくり説明だが、本作を見る上で「能」という芸能がどういうものかを知る上では、この位で十分なはず。

能がしばしば「鎮魂の芸能」と言われるのは、多くの場合主人公が戦で負けた武将や、恋人や夫を思うあまりに心を乱したり死んでしまった女性だったり、はぐれてしまった子供を思う親だったりで、その思いのたけを舞で表現する。ワキはそうした何かしらの思いを抱えた者の言葉を聞くためにそこに居る。シテが人間だけでなく神だったり、○○の精だったりもするが、「その者の思い」を聞くという構成は基本的に同じだ。

「未練の幽霊と怪物」というタイトルも、能(シテ)の特性を言い換えたものと言えるだろう。「幽霊」と「怪物」というのも、主人公が「人間」か「非・人間」かということだ。(初演では「挫波(ざは)」と「敦賀」だったが、「挫波」は女性建築家のザハ・ハディド、「敦賀」は「もんじゅ」が主人公だった。)今回の場合、幽霊が「円山町」、怪物が「珊瑚」ということになる。

舞台装置・登場人物

さて、いよいよ「未練の幽霊と怪物」の話だが、まずは舞台装置について。

舞台は能舞台になぞらえて、正方形の本舞台橋掛かり(花道みたいな通路を「能」では橋掛かりという)、その脇には松の代わりに3つの黄色い小さな円錐コーン。このコーンが「珊瑚」では海辺のテトラポットにも見えてくるし、「円山町」ではまさに工事のコーンにも見えてくる。松の形を単純化させたものが、それぞれの作品の中で別の何かにも見えてくる。

本舞台は濃いグレーのざらついた床に白線が敷かれている。白線は道路のサインを思わせ、全体的にアスファルトのイメージだろうか。一方で床のざらついた感じが「珊瑚」では砂浜にも見える。抽象的だが、それぞれの設定の中に上手く溶け込んでいる。

それぞれの登場人物は下記の通り

「珊瑚」
シテ:懐かしむ女(アオイヤマダ)
後シテ:ヒメサンゴの霊(アオイヤマダ)
ワキ:物書きの端くれ(石倉来輝)
ワキツレ:ドライバーの比嘉さん(清島千楓)
アイ:近所の人(片桐はいり)

「円山町」
シテ:辻に立つ女(小栗基裕)
後シテ:道玄坂地蔵尊(小栗基裕)
ワキ:新社会人になる女(七瀬恋彩)
アイ:花を手向けに来た女(片桐はいり)

初日の感想メモ(ワキの人物造形について)

レビューを書くにあたり、初日に帰りの電車でkeepに殴り書きしたメモを見返す

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ワキの口調が耳に障る。ワキの務めはシテの声を聞く者であり、観客とシテの間をつなぐ者で、あくまでも「普通」の者だと思う。そこにあまりクセをつけない方が良い気がするが、極端に象徴性が高い能のフォーマットに落とし込む時にあまり現代的だと(自然になると)摩擦が生じるか?

あるいはその最も現代の感覚に近い者としてアイ(片桐はいり)がいるから、そことの差をつけたか。にしても「珊瑚」と「円山町」でワキの口調が似てるのには若干芸がない気がする。

「円山町」…そのタイトルからしてラブホテル街で起きた何か、ということになるだろうと思った。案の定ラブホテル街に、ワキである大学卒業間際の女性は向かって行く。

そこにある地蔵堂にワキが通りかかると、そこに三十年前、この場所で春をひさぎ、そして殺された女(小栗基裕)が現れる。

まさかの女性役!そのビジュアルに面食らうと同時に「そりゃ能だもんな」と思い直す。能のフォーマットなら男性が女性の役をやることは普通のことだ。

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のっけの口の悪さよ(笑)。シテの2人(アオイヤマダ、小栗基裕)の2人のパフォーマンスに圧倒されたのに、それを書かずしてワキの人物像から書くとは…。ちょっと初日は色々と面食らったために色んな感想があるはずなのに上手く言葉にならなかった。

2回目、3回目は、座席がG列で割と全体を俯瞰で見ることができたのと、ワキの人物像に免疫がついたからか、初日よりすんなり観ることができた。2回目はワキの言動が少し落ち着いた、というか、観客との摩擦が少なくなった気がするが、東京の千穐楽では、「珊瑚」ではどんどん動きがオーバーになり、「円山町」の方では、自然らしくなった。

能が鎮魂の芸能であり、ワキはシテの言葉を受け止める者として存在する。能の舞台のワキの佇まいを知っていると、今回のこの人物像は「ややワキという立場(役柄)をバカにしてないか?」と正直ちょっとむっとしてしまった。

それに対して、私の節穴の眼を開かせてくれたのが、いとうせいこう氏のこの投稿。(せいこうさんも本作を見に来たようで、鑑賞後の投稿。)

たしかに、ワキは供養をしたり、話を聞いたりと「その場の設定」には関わるが、だからといって、その後に「じゃあ自分はこうする(こう思う)」というコミュニケーションのラリーがない。その「存在理由」を作るために「圧倒され、呆然とする人」として、ワキの「いるけど、何も起こさない」という独特な役割を完遂させているのか。

そう思うと、逆に不自然過ぎるワキの動きにも妙に納得がいく。あの独り場違いなところに来てしまった時の心許なさ、それ故の多動であったり、常にちょっと半歩下がったような体制だったり。実際にはそこまでオーバーな動きにはならないけれど、心の中で起こる「ざわつき」「そわそわ」を目に見える形にした時に、ああなるのかもしれない。

シテ2人のパフォーマンスについえ

さて、メインであるシテの2人のパフォーマンスについて。

珊瑚:アオイヤマダ

会場サイネージ

珊瑚」のアオイヤマダの踊り。前シテでは白いワンピース姿で登場する。踊り始めた時、足の形1つで「人じゃない」感じを表現する。歌舞伎の舞踊の『鷺娘』でも、見た目は白無垢姿の女性だけど本当は鷺の精という役どころを表現するために、つま先を挙げて鳥のイメージを足で表現する。あるいは歌舞伎で犬や狐の役の場合、その手の形でそれぞれの動物を演じ分けるというのを聞いたことがある。

「人ならざる者」を表現する時には、指、足先という四肢の先の表現が肝要なのだろうか。そして穏やかに海の中で暮らす珊瑚の姿、それが辺野古の埋め立てで引きはがされ別の場所に移植され、水に馴染まず死んでいく様を見事に表現する。金髪のおかっぱ姿というまるで少女のような姿であることが、「ヒメサンゴ」という自然物の無垢さに合っており、だからこそ彼女の身体表現のダイナミックさ、力強さが、物語の残酷さを強調する。

アイの近所の人(片桐はいり)が登場し、辺野古の埋め立てによる珊瑚の移植計画について語られるが、その時に「人間も一緒よね。」という台詞から、強制的に移植させられた珊瑚の人生が、災害で住む場所を奪われた人間の状況にも繋がる話にも思えた。珊瑚の話であり、人間の話にもつながってしまう。それは本来意図していない解釈であろうが、そうした解釈も受け入れてくれることだろう。

後シテでは、半透明で全身ドレープがついた青い衣裳を身にまとう。珊瑚そのものであり、海全体でもあるような衣装だ。海の中に住む生き物としての一種の優雅さと、理不尽な暴力(権力)にその身を引きはがされる痛みを表現し、クライマックスでの里アンナのまるで超音波のように耳ではなく能に直接響いてくるような謡と相まって、そのボルテージは最高潮に高まる。その時の表情が晴れやかな様な顔をするので、まるでこのまま天に昇っていくんじゃないかと思えた。

それまで考えたこともなかった(そんな問題があったことさえ知らなった)珊瑚の痛みを体験し、ついにはその魂が昇天していくさまをも踊りで見せた。

円山町:小栗基裕

会場サイネージ

円山町」では、実際に渋谷で起きた事件を題材にしていることは後から知った。前シテは、昼は大手企業でエリートとして働き、夜は円山町で体を売り、ある日誰かに殺されてしまった女性。ワキである大学卒業間際の女に対し、「自分は鏡」であり、相手の内側を「暴く」と告げる。

冒頭の「自分に泥を突きつける」ことを表す手の動き、鎖につながれた姿態を見て、「あぁこれはすごいものになるな」と感じた。踊りの中に体を売るシーンを彷彿とさせる仕草もあり、その生々しさに心が少し苦しくなる。これは男性が演じないとだめだと直感的に思った。女性が演じたら生々しすぎて多分見るのが辛かっただろう。男性が演じることで、いい意味フラットになるのだと思った。

「なぜエリートだった彼女は、夜な夜な春を売ったのか」

観る者誰もが気になるその問いに、後半になったら答えを聞かせてくれるのだろうと思ったら、甘かった。後シテは今でも円山町にある道玄坂地蔵尊。

道元坂地蔵尊
千穐楽後の3月上旬に訪問。舞台を見に来た人が備えたのか、たまたまなのか、ミモザの花が供えられていた。

地蔵尊は、彼女を救うことができなかったことを悔やむが、「なぜ春を売ったのか」という疑問には答えてくれなかった。その意図を後でパンフレットを読んで思い知った。

「実在の人物を扱う際にその人を”可哀想化”しない」

『未練の幽霊と怪物』パンフレットより

演出家の岡田氏の発言だ。勝手に「こういう思いだった」と脚色するのは、むしろその方が簡単かもしれない。だがそれこそ、前シテ(辻に立つ女)が言っていた「死後も私に泥を塗る」ことと同等になってしまう。勝手にレッテルを貼ること、「そういうの」と勝手に解釈すること、そうした「自分は安全圏の中(にいると思い込んで)」いて、春を売る女のことを「対岸の火事」として「可哀想化」して「見下す」。無意識のうちにしてしまっている、自分の傲慢さを突きつけられたようだった。

地蔵尊から歩いて数分、神泉駅すぐそばの遮断桿と二つのトンネル

そのことは舞台を観終わった後より、千穐楽後の3月8日。渋谷で舞台の場所を歩いた時に一層身に染みた。Bunkamuraからラブホ街の中に入り込み、地蔵尊をお参りする。そして神泉駅へ向かう。その道中、ラブホ街の中で一人歩く居心地の悪さ、「自分はここには(ホテルに入る)用はない人間だ」と思い何かをガードしている自分、多分私の中に沸き起こった全ての感情そのものが、舞台におけるワキの彼女の佇まいそのものだったように思う。多分あの時「辻に立つ女」が現われたら、同じような目に遭っていただろう。

そして神泉駅へ。京王線で神泉駅を通過することはあっても、神泉駅付近を歩いたことはなかった。渋谷の谷底のその場所は、スクランブル交差点界隈の雑踏が近くにあるとは思えないほどひっそりとしていて、ひんやりしていた。ずっと東京に住んでいて、知らなかった場所。気づかなかった場所。そのひっそりとしたところで、一人の人が生きて、そして殺された。

踏切の中央に立つ

舞台には直接関係ないことがだが、この踏切を渡る時、トンネルを正面から撮りたくて立ち止まった。いつ電車が来るか分からない危ない行為なので、本来するべきことではないのだろうが、その時に一瞬「死」と隣り合わせであることを感じ、踏切の「こちら」と「あちら」のちょうど間が、「生」と「死」の間のように感じられた。彼岸と此岸の境にいる。自分がいつどちらの側に転ぶか分からない。

それは生きているうちも同じ。「安全圏」にいると思っているつもりでも、ふとしたことで「あちら側」にいるかもしれない。「あちら側」が何を指すかは分からない。1つではない。でもそれは、このトンネルのように、ずっと昏い口を開けて待ち構えているのかもしれない。

本作を語るためのキーワード

仰々しいタイトルをつけてしまったが、大それたことではなく、それぞれの物語の内容とは別の切り口で本作について感じたことを記していきたい。

「白い服」=死装束/「聖」なる者の象徴

どちらも前シテは白の衣装だった。「白」=「この世のものではない者の象徴」、平たく言えば「幽霊」の装束(死装束)という意味が1つにあるだろう。

そしてもう1つが「無垢」さ。珊瑚はもちろん、夜な夜な身体を売った女性の中にある「清廉」さでもあるだろう。それは泥の中でさく白蓮のような。この世の者ではなくなったからこその永遠の「白」さ。

後シテの衣装のダブルイメージ

「珊瑚」ではすでに述べたが、後シテの衣装はダブルイメージになっているように感じた。「珊瑚」では、「珊瑚」そのものであり、その青色から「海」全体へとイメージが広がる。(パンフレットでは「ヒメサンゴの霊」)

「円山町」では後シテは地蔵ということで、頭に青色のターバンを巻き、衣装は白のレディースもの(?)のようなセットアップだったが、この衣装を見た時に「キリコのビーナスみたいだな」と感じた。

※ジョルジュ・デ・キリコのビーナスについては下記サイトの画像参照

自分の感性と想像力を試してみる。「デ・キリコ展」のちょっと違った楽しみ方。 - SUMAU - あなたの日常に、心動かす出会いをデザインするモリモトのWEBメディア。
この絵をどこかで観たことのある人も多いのではないだろうか。現実の風景や何かを描いているようでいながら意味がつかないオブジェたち。どこか不思議でちょっと不気味な感覚を呼び起こすイメージ・・・。

「珊瑚であり海」「地蔵尊でありビーナス(女性)」という、ダブルイメージは狙ってのことなのか、私の単なる思い込みだろうか。

というのも能(や歌舞伎の舞踊)においても、そうしたダブルイメージを巧みに取り入れる演出がある。しかもそれが「衣装」によって行われるからだ。

たとえば主人公が、死んでしまった恋人、あるいは別れて離れてしてまった恋人を思って相手の残した衣装を上から重ねて着て舞うという演出がある。その時、その舞は、「恋人そのもの」として踊っているのか、「恋人の衣をまとった主人公自身」として踊っているのか、そこに明瞭な線引きがない。そのどちらにも取れる。

これは正解がある物ではなく、私のように感じてもOKだし、もちろんそれぞれの役として見てもOK。あるいは私は想像しえなかった他のイメージを重ねる人もいるだろう。その多様さが能という芸能のもつ抽象度の高さであり、また本作で「能」というフォーマットを用いていることの意義なのだと思う。

シテの身体性ーー幽玄とは

シテの舞が舞台の核となるのは「能」においても、本作においても同じだが、その(見た目の)運動量というかベクトルのようなものが全然違っていた。

実際に私の金剛流の先生がおっしゃるには、装束を身に着けて1演目を務めたら、終わる時は倒れ込むほどだそうで、実際はものすごい運動量なのだと思うが、見ている分にはそれが分からない。というか分からせないことで「幽玄」の境地を目指す。

能という芸能の目指すべきありようとして言われる「幽玄」という言葉。かっこいいので便利に使いがちなのだが、じゃあ「幽玄」とは何よ?と聞かれて理路整然に説明できる人は少ないだろう。

私もまだまだ「幽玄」を語ることはできないが、これまで能を見てきて感得した1つのイメージとしては「特定の時代を超えた普遍性を備えた存在感」という感じだろうか。能の舞台をみて、本当にその作品に入り込むと、今自分が何時代にいるのか分からなくなるような感覚に襲われる。まさに目の前のいる人物、あるいは神様のような人外の者が主人公なら、その異界の者が現われた様な錯覚に陥る感覚。それを見る者に与えることが「幽玄」の1つの境地とここでは仮定しよう。

そして能においてそれは極限まで動きを抑制し、ここぞという時に舞うことで「幽玄」の境地を目指す。その極限までそぎ落とし、抽象度を高めに高めることで発せられる濃密度のエネルギーが、装束や面(おもて)の美麗さと相まって幽玄へとつながる。

それを思えば、本作のシテは「踊る」。舞台を隅々まで使って踊るし、実際の能に比べて(特に「円山町」では)ワキとの絡みが多い。そういう意味では、能の現実世界を超越した存在になるようなベクトルではなく、現実世界の者に向っていく感覚だった。そういう意味では私の感覚としてあった「幽玄」というものとは違っていたが、彼らの踊りの濃密度な踊りは「幽玄」という言葉とは別の「何か」であったことは確かだ。

しかし私はまだその「何か」を言い表す言葉を探り出せていない。圧倒されたのだが、圧倒されたというだけでは、素晴らしかったというだけでは、なにも言い表せていない。

最後に

音楽や謡について触れられなかったが、音楽では、最初の不穏な一音は、能のキザシ謡について触れられなかったが、音楽では、最初の不穏な一音は、能のヒシギ(最初に吹かれる高音の「ピーヒャー」という音)を踏襲しているのだと分かる。

また、能の謡は「水面の波紋」のイメージで、水平に広がっていくイメージ(このイメージは多分に『ガラスの仮面』の「紅天女」の試演でのマヤのイメージも影響している)なのだが、今回の里さんの歌声にも同じような響きを感じた。

『未練の幽霊と怪物』を「能のフォーマットを使った現代劇」と言うべきなのか、「現代における能」と言うべきなのか、絶妙なところで難しい。そしてこのシリーズが今後も続くようなら、少し気を付けた方がいいかなと思う点としては、このフォーマットが形骸化しないことだ。実によくできたフォーマットなので、多分岡田氏の手腕をもってすれば様々な題材を落とし込むことができるだろう。

しかし、「能」が必ずしも基本フォーマットに則したものばかりではないように、「本来描きたい物」があって、それに一番近い構成にするのが本来の在り方なので、この便利なフォーマットに安住しないことを願う。

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