12月の歌舞伎座では、第2部に『鷺娘』、第3部に『天守物語』が上演された。意図していたわけではないだろうが、図らずもこの2作品が見事な対比となっており、これを同時に、そして七之助さんの鷺娘、玉三郎さんの富姫という、適材適所、最高の配役で観ることができた感動に打ちひしがれた。
『天守物語』
まず本作の素晴らしさだけ先に語ると、今回の『天守物語』は「歴史の証人になれる」、そんな舞台だったと思う。後々「私はあの時玉三郎さんの富姫、團子の図書之助で天守物語を観た」と、後世のファンに大いに自慢できると思う。その位、この舞台に立ちあえたことの奇跡に感謝したい。玉三郎さんの富姫の完璧さ。実年齢でいえば50歳以上離れている二十歳の團子と恋人として成立することが既に奇跡。富姫は「異界に住む者」であるが、未だ衰えぬ美しさを持つ玉三郎さんがもう地で「異界の者」なのだから、そりゃぁ他の役者さんは中々この壁は越えられないだろう。
そしてその玉三郎さんをして恋に落ちるだけの説得力が今回の團子にあるからこそ、今回の天守物語が語り草になるほどの出来栄えなのだ。子供でもない、でも上の者におもねるほど大人でもない、その危ういほどに清廉とした青年・図書之助を團子が見事に体現した。「演じた」ではなく「体現した」と言うのは、そもそもこの「子供でもないけど大人になり切れない」という性質は演じて出るようなものではなく、滲み出る者、役者の人間性そのものによるところが大きいからだ。「子供ほど未熟でもない、でもまだ手練れているわけではない」役者の若さと瑞々しさそのものが、図書之助という人物と重なるからこそ輝く。
そんな「完璧な芸」の富姫(玉三郎)と、「時の花」の図書之助(團子)により、泉鏡花が描きたかったことがまざまざと目に焼き付いた。そんな舞台だった。
作品の話しに戻ると、『天守物語』は和製サロメ、つまりファム・ファタルともいうべき富姫が、図書之助と出会い実に純粋な恋に落ちる。2人の運命は清らかだ。一時は失明し、希望を失うも、桃六によって眼が見えるようになり、2人の恋は実る。
前半でたっぷりと「異界の者」としての奇怪さ(だけど美しい)、妖しさを見せた後に、図書之助の登場で一転して可憐な少女のように一目惚れする。その変化っぷり(「帰したくなくなった」の台詞の時)に、時折客席から笑い声が出てしまうほどだ(笑うようなところでもないのだが)。図書之助を諭しながらも、自分の恋心と生き方、そして愛する図書之助を世俗の卑しさに汚されてしまわぬよう、気高さと美しさと純粋さを貫く富姫の姿。その理想の姿は現実の世界ではなく「異界」にしか存在しないファンタジーであるということだろう。
『鷺娘』
一方の『鷺娘』は、花嫁衣装が象徴するように、清純な女性として登場する。中盤で恋する女心をさまざまな振りで踊ってみせるが、その幕切れは、地獄の責め苦に苛まれて倒れ伏すという寂寥感ある結末だ。
ファム・ファタルが純粋な恋をする女性を描いたのが『天守物語』なら、『鷺娘』は純粋な女性が恋に狂い堕ちていく姿を描いたのが『鷺娘』だろう。どちらも恋する女性がテーマながら、その出発点と結末がまるで真逆のベクトルであることに気づいた。
しかも玉三郎の富姫、七之助の鷺の精という配役だからこそその対比が強調されている。常々七之助さんの「憑依的」な表現(役柄)、人ならざるもの(動物だったり、神だったり)が素晴らしいと思っていて、その一点においては玉三郎さんより突出していると思っている。
女方として必要な要素があって、たとえば五角形のチャートみたいなのを想像してもらうと、玉三郎さんが各性質を100%で持つ(きれいな五角形になる)「完璧な美しさ」だとすれば、七之助さんはじめ中堅、若手の方々は、そのうちのどれか1つ(いくつか)の特性が150%特出して、どれかはまだ70,80%といういびつな形の五角形になる感じだ。
そして七之助さんの場合、その突出した性質は「狂気、憑依」だと思う。『鷺娘』のラストに呆然自失とする姿は「こんな瞬間(玉三郎さんの鷺娘に)あったっけ?」と思うほど印象的だった。私自身『鷺娘』を生で見るのは初めてというレベルの素人なので、玉三郎さんの『鷺娘』と比べられるほどの鑑賞眼がある訳ではないので、不正確だが、元々持っていた鷺娘のイメージより、はるかに狂気を感じた。
こうやって考えても、玉三郎さんの富姫(團子の図書之助)の『天守物語』、七之助さんの『鷺娘』という配役を、同じ月に同時に上演されたことの意義は大きいように感じた。こうした部を超えた共鳴は初めての体験かもしれない。
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