【レビュー】森山未來×中野信子×エラ・ホチルド「FORMULA」@東京芸術劇場

舞台・映画

東京芸術劇場で2022/10/15~23まで上演されている森山未來×中野信子×エラ・ホチルドによる「FORMULA」を鑑賞してきました。

森山未來のダンサーとしてのパフォーマンスを生で観るのは初めてで、「脳科学とのコラボ?面白そう」位のミーハー気分でチケットを取ったのですが、これがとんでもなく素晴らしかった!!!

『FORMULA』概要

俳優でありダンサーの森山未來が、脳科学者・中野信子、そしてイスラエルのダンサーであるエラ・ホチルドと共に、約1年間のリサーチとダイアローグを積み重ね、その集積の結果として今回の『FORMULA』という舞台があります。

「言葉と身体の関係性」「死生観」などをキーワードに出発したリサーチは、最終的には「人間を人間たらしめているものとは何か」という問いとなり、舞台上のパフォーマンスへと結実しました。

「FORMULA」森山未來×中野信子×エラ・ホチルド
「FORMULA」森山未來×中野信子×エラ・ホチルド

ロビーでは脳科学をテーマにアート作品やリサーチの一端を展示

東京芸術劇場の開場時間は各公演の45分前。できることなら開場したらなるべく早く入場することをお勧めします。というのもロビーには、今回のプロジェクトを象徴するアート作品や、リサーチの中で出会った研究者やアーティストの言葉を映像にして展示しているからです。

基本的に映像での展示や、アート作品も専用の端末を借りて体験するため待機する時間もあるので、開演間際に入場するとそれらの展示を十分理解したり、味わう時間がなくなってしまいます。私はこのロビーでの展示があることを全く知らず、仕事終わりで30分前くらいに劇場について、腹ごしらえやトイレやらを済ませているとじっくり鑑賞することができずもったいないことをしました。

ロビーの展示だけなら、鑑賞日以外でも半券を提示すれば、各終演後1時間の間に鑑賞することも可能のようです。

専用の端末をかざすと、中野信子、森山未來、エラ・ホチルドの脳波を視覚的に見ることができる作品(これは中野信子氏の脳波)
森山未來の脳波(うまく撮れなかった)

これらの作品、展示から、森山・中野・エラの3人がどういうプロセスを経てきたのか、その一端を感じ取ることができるでしょう。

圧巻のパフォーマンス

開演時間となり、いよいよパフォーマンスが始まります。

※以下、舞台の内容に触れますので、ネタバレにご注意ください。

まず、この作品についてあらかじめ断っておくと、「脳科学×ダンス」と聞いてイメージするような、何かデジタル技術を駆使したりなど、”脳科学的な何かとダンスが連動する”という表面的にわかりやすいコラボレーションというのはありません。

そうした舞台上で目に見える形で「ダンス」と「脳科学」が掛け合わさるのではなく、制作のプロセスこそが”コラボレーション”した部分で、舞台はその結実と位置付けられます。

6人のダンサーによる群集劇

『FORMULA』舞台装置

舞台は、誰か一人が主役になるのではなく、動きながら次々と主役となる人が変わっていき、その中で人の人生を「一人の人間」「愛する二人との関係」「家族の関係」などが展開していきます。中盤のあるシーンを除きセリフは一切なく、各々の身体と全体の構成によって、次々と物語(といえるほど明快なストーリーではないが)を表現していきます。

特に一番胸に迫ってきたのが、舞台上手にある小屋(写真右のセットが、部屋のようになっている)でダンサー全員で繰り広げられる”悲劇”のようなシーン。具体的にここがどういうストーリーなのかを限定することはできませんが、「人と人との関係の中で苦しみ藻掻く」様が表されています。一人が苦しそうな時もあれば、全員が何かに苛まれている、あるいは一方が苦しめ、他方がそれに耐える…。

このシーンを見た時、ふとピカソの「ゲルニカ」のようだと思いました。そして、次にはゴヤの『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』が頭に浮かびました。そう思わせるのは、狭くて暗い矩形の部屋に窮屈に収まった6人のダンサーが、そのスペースの中で様々に悲劇的に動き、その一瞬一瞬でピタッと全員が静止するのが、実に絵画的に感じたからです。

そうした過去の人類史における惨劇をも想像させ、ここでは「小さな小屋の中の出来事(=組織の最小単位である家族)」としてだけでなく「人類の負の記憶」でもあると思います。

人間とは何か?愛こそが”人間”を”人間”たらしめるのか

ダンスによるパフォーマンスの中、中盤で、森山未來が倒れた男性ダンサーの頭を押さえつけ、唐突に、そして捲し立てるように語り出します。

「わたし」は一人で生きている
と、感じる人も少なくはないでしょう

けれども、それは無数の見知らぬ人たちの生命活動に、直接的に、間接的に、支えられているのです
人間は、無数の見えないつながりの糸がないと、生きていくことができません
(中略)
ホモ・サピエンスが生き延びたのは、集団として生きるための進化を遂げたからでした
そのために生まれた巨大な脳
そうすることでしか処理できない、複雑な社会性
つながりを求める情動としての、愛情
(中略)
人とのつながりが断たれること
「わたしたち」が、小さな「わたし」のばらばらな寄せ集めに過ぎなくなり
誰もが誰かの記憶を失い、思い出をすべて忘れてしまうこと
もしかしたら、そのことこそが、
わたしたちの最終的な死のかたちなのかもしれません

『FORMULA』劇中テキストより(会場配布パンプレットより一部抜粋)

つながること(集団をつくること)こそがホモ・サピエンスの生存戦略であり、ゆえに「つながりを持ちたい欲求」、言い換えれば「愛情」を持つことが、脳のレベルで規定されていると語ります。私たちが一般的に「愛情を持つ」という感覚にある時、ある物質が脳から出るというのです(すみません、物質の名前は覚えられませんでした)。子供が生まれた時に母親が自然と抱く愛情(庇護欲)もまたその物質によるものだそうです。

私は、この台詞を聞いたとき、このことの”心強さ”と”恐ろしさ”を感じずにはいられませんでした。「相手とつながること」こそが人類という集団をここまで繫栄させてきた原動力である一方で、それが翻って「しがらみ」になることを私たちは知っています。人類史における悲劇は小さな家族間の出来事でも、戦争といった国家レベルの出来事でも、詰まるところ「つながりがこじれた」ことで起きています。

「つながる」ということの良い面/悪い面を知ってなお、私たち人間は人間であるためには「愛(つながり)」が不可欠なのです。というより、そこからは逃れることはできないのでしょう。

死なない限り。

人は忘れ去られるとき「死」ぬのか

上記の引用でもあるように、この作品では「つながり」こそ人間を人間たらしめているものであるとし、肉体的な死ではなく、誰からの記憶からも消えることを「死」と捉えて構成されています。

鑑賞中(おそらく森山未來が怒濤のように語る言葉を聞きながら)、高校生の時の思い出がよみがえってきました。それは、いつもの通学路を下校中、ふと気づくと自分の目の前に通行人も下校する人も地元の住人も誰の姿もなく、振り返っても人の気配がなかった時のことでした。

いくら細い裏道とはいえ、誰か一人くらい下校する人や通行人がいてもよさそうなものだし、少し先の踊りさえ車の音がほとんどなかったように思います。偶然そのタイミングであまり人がいなかっただけとは理解しても、神隠しにでもあったかのようなその光景に違和感を覚え、同時にこう思ったのです。

「今、この瞬間、私は生きていると言えるのか」

今この瞬間、私の視界に誰もいないということは、世界中のすべての人の視界に「私」はいない。誰の視界(世界)の中にも存在していない私は、今この瞬間この肉体が消え果てても誰にも気づいてもらえない。消えたことさえ気づかれない私は、果たして「今存在している」と言えるのか。

そう思った瞬間、自分の足元が崩れ落ちるかのような感覚に襲われました。「私」という存在の土台が崩れ落ちる感覚になり、自分が生きているということ(自分の存在)を”証明”するには、誰かの視界(世界・記憶)の中に入っていなければいけないのだと悟り、「自分」という存在の脆さを感じた出来事でした。

この時私が感じたことも、おそらく劇中の言葉でいう「最終的な死」ということなのだと思う。

死後の世界か、原始の世界か

物語中盤、一組の男女のカップルが登場し、男性が死んでしまう(というような)シーンになります。

その後、ダンサーたちは、それまでの「この世界に生きる誰か(人間)」としての衣装から打って変わって、鮮やかで奇妙な姿に変貌し、一気に舞台はファンタジックな世界観になります。ある人は神様のような姿(「なまはげ」っぽい)、ある人はクラゲのようなアメーバーのような姿、ある人はクリオネのような姿…彼らはそれぞれ、厳かに舞うように、あるいはふわふわと揺れ動いた入りして、一人の人間の周りを囲みます。

その人間は、何かしらの生き物たちからその不思議な衣装を次々に譲り受けるようにして着ていき、最後には全ての衣装を一人の人間が纏うことになり、その結果、彼はまるで”神様”のような姿になり舞台は終わります。

この最後のシーン、私はクリオネやクラゲような生き物がふわふわ動いていることから、人類が誕生する前の深海など、原始的な世界をイメージしていました。一方で、この日のパフォーマンス後に行われたトークセッションで、研究者の池上高志氏はこの部分を「死後の世界」と解釈したようです。

同じものを見ても、それを「死後のイメージ」と捉えるか「原始のイメージ」を重ねるかという違いが生じるのも、この舞台がそれだけの余白を残すようにできているからで、いろんな人の解釈を聞いてみたいと思いました。おそらく解釈は千差万別だろうし、例えば「死後の世界」「原始の世界」という言葉で説明したそれらも、もしかしたらそもそも同じようなものなのかもしれない。

トークセッションでさらに深まる!!森山未來×池上高志×エラ・ホチルド

私が見に行った回では、終演後にトークセッションが開催されました。今回のプロジェクトの企画者である森山未來、そしてエラ・ホチルド、そしてかねてより森山と交流のある人工生命の分野の研究をしている池上高志の3人が登壇しました。

これが実に面白かった。特に池上さんの話は「目から鱗」なことが多く、帰宅中に興奮冷めやらぬ状態で備忘録としてつぶやいたtwitterの投稿を見出し代わりに引用しておきます。

セッションの冒頭、今回のテーマに沿って「人間を定義するとしたら」という問いに対し、池上さんの人間も含めて生命の定義を「逃げること」という視点が、目から鱗でした。あらゆる生命が「家族」あるいは「群れ」といった集団を持つからこそ生きることができると思っていたのに、その生命そのものの本質は、むしろ「逃げる」という対極にも思えることだったなんて。

しかし、これは後々の話題になる「閉じることは開くこと」にもおそらく通じていて、何かの組織(あるいは危険)から「逃げる」ことは、その視点から見たら「逃げる(閉じる)」ことでも、別の見方をすれば、別の場所に「移る(開く)」ことと言えます。

引きこもっているから世界に対して閉じているのではなく、むしろその時に別のどこかにアクセスしている(開いている)かもしれない。その可能性や視点を変えることを池上さんは語っていました。

そして「記憶は集団の中に生まれる」という話も面白かったです。(と言いつつその事例を忘れてしまったのだけど、)一人の中では記憶は生まれず、群れの中に記憶が生まれ、自分もその記憶の一部を担い、また自分の記憶も群れの中にあるから、「逃げる」ことがしづらいことがあるという話で、これは昨今の生きづらさの問題と直結しています。

だからこそ、池上さんは今回のプロジェクトを企画した二人に「劇中の展開で気になったのは、結局人間はその(集団からの)しがらみから逃げ出せないのか?」という問いかけをしました。

確かに今回の作品は、(それが正しいという断言はしていませんが)「人とは何か」というテーマに対し、「つながり」ということを1つの解として構成されています。そこから逃げることで救われるものもあるのではないかという視点は、私が今一番気になっている問題でもあったので、池上さんの二人へのこの質問は非常に興味深く感じました。

この問いかけに対する明快な回答はなかったように思うけれど、森山さんは「人とは何か」の問いの答えそのものは舞台では明言していないし、おそらく今回舞台で表現したものも、あらゆる定義の1つと捉えているというようなことは言っていたかなと思います。

また、今回の「FORMULA」というタイトルも、リサーチも含めたプロセス含めての過程すべてが「FORMULA(方法)」であると言っていて、彼にとっては、俳優・ダンサーという職業柄もあるけれど、次々に場所や関わる人が変わっているので、おそらく自然と1つの集団の中に「閉じて」、また時期が終われば「開いて」次へと移る流動的な感覚で「つながり」を捉えているんだろうなと感じました。

劇場に行けないという方にも朗報!配信も決定!

作品の魅力を語りたいけど、何も伝えられていないという手ごたえの無さしか感じない。そのくらい、本作で受けた衝撃が大きく、上手く言葉にできない。でも確かにしっかりと心の奥には響いてきていて、その理由がどうにもこうにも言葉にできない。

この作品はもっと多くの人に見てもらいたい。今後各地への巡回もあるので地方の人もぜひチャンスがあれば見てほしい。

でも、どうしても劇場に行けない…という方も大丈夫!配信が決定しました!

個人的には配信よりも生でダンサーたちの踊る身体を目の当たりにしてほしいけれど、ぜひ見に行けない方は配信でもいいので見てほしい作品です。

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