国立新美術館で開催されている「メトロポリタン美術館」展。その見どころ&私なりに感じた展覧会の見方をご紹介します。
展覧会の内容・構成
HPでは展覧会の見どころを下記のように紹介しています。
①メトロポリタン美術館、主要作品が一挙来日
展覧会HPより
②ルネサンスから19世紀まで、 西洋絵画史500年を彩った巨匠たちの名画が勢ぞろい
③ヨーロッパ絵画部門の2500点余りから 選りすぐった名画65点、 うち46点が日本初公開
ざっくりと言ってしまえば西洋美術の中でもメジャーどころの時代・作家の作品持ってきました!という感じ。展覧会の章構成は下記の通り、時系列に沿っていく実にオーソドックスな展示です。
「Ⅰ.信仰とルネサンス」
「Ⅱ.絶対主義と啓蒙主義の時代」
「Ⅲ.革命と人々のための芸術」
実は正直この章立ても章の解説も「教科書的だなー」と思っていました。それぞれの言葉の意味や時代背景を知っている人には「当たり前のように知っている」レベルの説明に留まっているし、美術史に馴染みのない人にとっては分かるような分からないような、という”帯に短し襷に長し”という感じを受けていました。
その後、家に帰って「結局メトロポリタン美術館展で私は何を見たのだろうか」と、展覧会チラシに掲載されている全画像を今一度眺めてようやく腑に落ちた事があり、またそれがおそらく西洋美術史に詳しくない人にとっての展覧会を見ていくポイントになると思ったので、紹介していきます。
西洋絵画の500年=「誰に光が射しているのか」
本展の優れていることの1つに展覧会のチラシに展示作品全展が網羅されていること。65点に絞っているからこそできるデザインで、A3サイズとはいえ(むしろだからこそ)凝縮されていて圧巻です。海外の美術館でよくある壁一面に作品が並んでいるあの光景をも彷彿とさせますが、そのチラシを見ながら展覧会を反芻して思い至ったのが「西洋美術は誰に光が射しているか、どういう光が放たれているかの歴史なのだ」ということです。
先ほどの3章のタイトルは美術史の用語で括られていますが、描かれている対象、言い換えれば光が当たっている対象に注目すれば大きく「聖人(神)」「貴族」「市民(市井)」という展開になります。
第1章:宗教画=聖人(神)だからこその輝き
第1章に見られる宗教画は、神(もしくはそれに準じる聖人)をモチーフにしています。崇高なる彼らの姿、彼らの物語を描いた作品の輝きは、太陽の光が注いでいるということではなく、描かれている人物自体の”聖性”ゆえの光(輝き)と言えます。なので同じ明るい画面でも後々登場する印象派の光とは全く性質が異なります。崇高なる神(聖人)を描く世界だからこそ輝かせる必要があった訳で、それは背景や後背などに金という物理的に輝く素材を用いていることでも表現されてきました。
また、彼らはその聖性ゆえに絵の中で光源そのものにもなり得ます。それを端的に描いているのがエル・グレコ《羊飼いの礼拝》でしょう。キリスト誕生の場面を描いた作品ですが、ルネサンスを経て人物の立体感や遠近法など、宗教画もよりリアルに表現されていきますが、この作品では極端に生まれたばかりのキリストから光が放たれ、劇的な表現になっています。(私はキリストに光が当たる、というよりはキリスト自体が光を放っていると解釈しました。)
第2章:貴族の肖像画/市井を描いた風俗画ー明るい光はそれでも貴族に当たる?
「2章で既に風俗画も描かれているし、庶民に光が当っているじゃん!」と言われそうですね。確かに厳密にはそうなのですが、第2章の風俗画、全体的に茶色いんです。庶民の生活の土臭さが画面全体に行き渡っていて、全体的なムードが沈んでいる印象を受けます。一方で貴族の肖像画や宮廷を飾った作品の明るさというか、鬱屈とした部分の無さというのが印象的でした。
その事を端的に感じたのが、フランソワ・ブーシェの《ヴィーナスの化粧》とジャン=バティスト・クルーズの《割れた卵》という2点の作品の対比。前者はルイ15世の公妾、ポンパドゥール夫人に重用されたブーシェが彼女が使う宮殿の浴室?を装飾するために作られたそうです。裸でキューピッドたちと戯れるヴィーナス、浴室を飾っていたということも踏まえると単に美しいヴィーナスというよりは、安に官能的なイメージも織り込まれていると想像できます。しかし画面全体は微塵もいやらしさを感じさせない、なんとも可愛らしく屈託のない明るさを感じます。
一方後者は、気怠そうに床に座り込む女性、その背後で老女が若い男性を叱っている姿が描かれている作品です。女性の傍には割れた卵。これは女性の処女喪失を暗喩しているとされ、沈んだ画面がこの場面の悲愴さを表しています。
この2点の作品は展示室の中で丁度L字のように展示されています。同じ”女性の性の営み”を想起させながら、宮廷文化の中では人生の華を謳歌するように輝かんばかりに明るく描かれ、市井の中でのそれは悪徳的に描かれ、そのベクトルがまるで真逆に感じました。そのことから、風俗画というジャンルは成立している時代ですが、「貴族(≒光)」と「市井(≒影)」という絶対的に揺るぐことのない対比構造が土台としてある中での表現なのだと思ったのです。
第3章:市井にようやく明るい光が注ぐ
そして第3章では今でも人気の高い印象派たちが登場します。もう説明も不要でしょうが、今を生きる市井の人々、街の様子、そこらを歩く人々が絵のテーマになっていきます。運河も、子供も、編み物をする女性も、踊り子も、何気ない自然の風景も、全てが明るい光を浴びることができるようになったのです。「これが印象派、これが近代」なのだ。印象派の理解として当たり前のことのように思えますが、改めて気づかされました。印象派だけの作品を集めた展示ではもしかしたらこの意味を体感することはできなかったでしょう。(すべての作品が明るく町の人々に光が当たっているので)
この展覧会で500年を辿って来たからこそ、「印象派」の意義を追体験できるのだと思います。
ラスト:光さえも”描く対象”にしたモネ
ネタバレになってしまいますが、本展の最後を飾る作品はクロード・モネの《睡蓮》です。会場でこの作品を見た時、正直げんなりしてしまいました。「結局、モネで終わるのか」と。何と言うか「モネ好きでしょ?睡蓮好きでしょ?」って言われている気がして、「いつまで日本は”モネやゴッホが好き”の域から出ないのか…」と暗澹たる気持ちになってしまったのです。
しかし、これまでの「光は誰に当って来たのか」という視点で捉えると、モネほどこの展覧会の最後に相応しい画家はいないと気づいたのです。
つまり、印象派の画家の中でも特にモネは”光”を描くことに意識が向いている画家です。子の展覧会だけを見ても、全ての画家が「対象物を描くための光」だったのに対し、モネだけは「光を描くために対象物」を描いているのです。そして展示されている《睡蓮》は、水面に浮かぶ睡蓮の葉も水面に映る柳(光の反射)も全て等価になって融合していくのです。「光」さえをも対象とし画面に溶け込ませたモネで締めくくるという展覧会の最後は、実はすごく意味のある流れだったのだと感じました。
あと一歩踏み込んでも良かった?
冒頭にも述べたように、今回の展示構成は良くも悪くも「教科書的」で、ルネサンスから近代までの500年という括りも、各時代の名品どころを持ってくる後付けの理由に思えたことは否めません。こうした構成が悪いという訳ではないですが、国立新美術館という場所でやる展覧会としてはもう一方踏み込んで、「メトロポリタン美術館」展をやるにしてももうすこし新しい切り口から構成してほしかったという思いがあります。
「じゃあどうすれば良かったのか」ということですが、展覧会の最後にメトロポリタン美術館の所蔵作品のデータベースをビジュアル化した映像が流れており、これって結構面白いんじゃないかと思います。映像では作品の素材別(oil、ink)や画家の出身地別(もしくは描かれた当時の居住地?)などグラフ化されており「やっぱりフランスが多いんだなー。思った以上にネーデルランドも規模大きめなぁ」など改めて気づくことがありました。
もっと色んな項目で数値化していくと、さらに多くの気付きや問題提起ができ、大げさに言うと”美術史を再構築する”ことができるのではないかと思うのです。一般的に美術史とされていることは「語りやすさ、保管しやすさ」に依るところが大きいという、いわば「美術館(美術史)の”不都合な真実”」を浮かび上がらせられるのではないかと思うのです。そしてそれはコレクションの規模が小さい(特定のジャンルに絞られている)美術館ではできないことで、膨大なコレクションを保有するメトロポリタン美術館クラスの美術館でしかできないことです。
うーん、「〇〇美術館の不都合な真実」展。中々ショッキングなタイトルで興味深いし、美術業界(美術史に残る)ジェンダーや人種の問題、その他様々な問題を考えて行く上でも、これからの時代に必要な切り口になるのでは?
展覧会概要
会期:2022年2月9日(水)~5月30日(月)
開館時間:10時-18時(毎週金・土曜日は20時まで)
休館日:火曜日(ただし、5月3日(火・祝)は開館)
料金:一般2,100円、大学生1,400円、高校生1,000円
HP:https://met.exhn.jp/
展覧会の図録は楽天からも購入する事ができます。
コメント
休日に美術館巡りも良さそうですね。
ゆったりと過ごせそうです。
コメントありがとうございます。
美術館に行くと普段とはちがう充実感がありますよね。
最近は日時指定制で人気のある展覧会でも以前ほど混んでいないので、
落ち着いて鑑賞できるのも嬉しいですね。