11月3日。前日の夜に、「文化の日だけど何か行くとこないかなー」と展覧会情報サイトを見ていたら、国立新美術館の「李禹煥」展が11月7日で閉幕すると知って、慌てて一緒に行こうと言っていた友達に連絡しました。
展覧会って会期が短いといけないけど、長いとそれはそれで「まだやってる」と油断して結局だいたい会期末に駆け込んじゃうんですよね。。。
そんなこんなで急遽行った「李禹煥」展ですが、本当に駆け込んでよかった!!!
展覧会概要ーー李禹煥(リ・ウファン)とはどんなアーティスト?
国立新美術館の開館15周年を記念する本展は、東京では初めてとなる、李禹煥の大規模な回顧展です。
李禹煥の名前はよく聞くし、様々な美術館で時折目にしていた作家ではあるものの、いつも1~2点何かしらの作品(大体は絵画作品)を見るだけなので、その全貌までは把握していませんでした。
この展覧会では初期の「もの派」時代の彫刻作品から直近の作品までを展望しています。「李禹煥」とはどんなアーティストなのか、全く知らなかった人も、ちょっとは作品観たことあるという人も、この展覧会を観れば「なるほど!」となること間違いなしの展覧会です。
展示構成
展覧会は、大きく「彫刻」と「絵画」の2部構成になっています。
《関係項》を中心にーーもの派・李禹煥の彫刻
「彫刻」部門ではもの派として活動していた60年代の作品から、世界各地の聖堂や美術館など、その土地(場所)からインスピレーションを得て制作したインスタレーションの再現展示となっています。
石とガラス、石と鉄板、綿と鉄板…など、この時代の作品は、素材そのものにはほとんど手を加えず、それぞれのモティーフの位置関係や力学(ガラスが割れる、ゴムが伸びる)といったことを示すことで、鑑賞者に日常とは違う「違和感」を与えます。
初期の作品が「物」と「物」の関係性に対して、鑑賞者は傍から眺めるばかりでしたが、次第に鑑賞者自身がその「物」と「物」の間に入り込むような作品へと展開されていきます。
建物の床一面に敷き詰められた石材。歩くとガタガタと揺れる不安定な床にすることで、安定した建築物の中に対する不安定な床(その不安定さは鑑賞者が歩くことで発生する)という対比を生み出し、鑑賞者に一層「今ここに自分がいる」という事実を浮かびあがせます。
一方で、透明なプラスチックの床に土を敷き詰め、またその上に置かれたプラスチックの筒には、土や水といった自然物を詰めた作品では、人工物と自然物の対比を単純化します。面白かったのは、目では床に土があるのに、その足の感触はツルツルとしたプラスチックのそれであること。この視覚と触覚のギャップから、今自分がいる”環境”とは、実のところ人工物でコーティングされたものなのか、という思いを巡らせるきっかけになりました。
世界各国でのインスタレーションの再現展示
今回の展覧会では、これまでに様々な場所で行ってきたインスタレーション作品の再現展示も行っています。実際の展示のスケール感はさすがにありませんが、李禹煥が各地の場所でそのロケーションを活かした制作の一端をうかがい知れます。
国立新美術館の屋外展示では、大きな鉄板がアーチとなった作品《アーチ》が設置されています。日常的な都心の風景の中に、異質な”門”が存在し、その下をくぐることで、見慣れた風景がなんだか少し特別なように思えてきます。
《点より》、《線より》シリーズ
展覧会の後半は、絵画作品における李の変遷をたどります。
筆にたっぷりの絵の具をつけ、それを一定の大きさでどんどんと点をキャンバスに打っていく。そして絵の具がほとんどつかなくなったら、また絵の具をたっぷりつけて点を打っていく…その作業をひたすら繰り返して画面を作る《点より》シリーズ。
一切の作家個人の癖や意思を排除したきわめてシステマチックな行為から、「時間」という目に見えないものが可視化されます。
同様のコンセプトによって、今度は点ではなく、1回の筆のストロークで構成された《線より》シリーズ。《点より》よりもややダイナミックになりつつも、禁欲的なまでの規則性と、微妙に差が生じることによるリズム感などは「点」と共通の感覚です。
「風》」「照応」そして、「対話」へ
しかし、この「点」「線」の理知的な画面から李は解放されていきます。続く《風より》(あるいは《風と共に》)シリーズでは、それまでの規則的な画面から解き放たれるように、筆のストロークは画面を不規則に、縦横無尽に動き回っています。
そして、その画面の自由に動く感覚は画面を飛び越えて、現実空間をも巻き込むことになります。それが《照応》シリーズ。短めのストロークがいくつか描かれるのみで、キャンバスのほとんどは何も描かれていません。そのストロークの絶妙な配置によって、鑑賞者がこの現実空間さえも”余白”として捉えることができる絶妙なバランスで描かれています。
画面の中で規則的な時間の痕跡を残していた「点」や「線」が、「風」によって自由になると、今度は画面の中だけでなく、外(現実空間)とも「照応」するように拡張されていく。そうしてどんどんと李の関心(そして鑑賞者の意識も)広がっていった先、今度はどうなっていくのかーーー。
そう思ったところで、続く作品が「対話」である。
大画面の中で極端に限られた数のストローク。その痕跡もそれまでの太い筆を一筆で描く”作家の手の痕跡”を残すものではなく、細やかなグラデーションによって作られたもの。これまでどんどん心の中の意識が拡張されていった矢先に、ストンと落とされたように、自己の内面に向き合うような、静謐な作品が誕生していく。
この展示の流れには痺れた。あまりにもきれいな構成すぎて、李禹煥とキュレーターの掌でまんまと転がされていると思う位に見事な展開。
《関係項ーサイレンス》
そして最後は再び《関係項》で締めくくられる。この作品がまるで石が絵を見上げているように見えてほんとうにキュート!!なんだか『フランダースの犬』で最後にネロとパトラッシュがルーベンスの作品を見て永遠の眠りについていくあのシーンが思い浮かんだ。
そういえば、別にどこにもNGなんて指示はなかったのに、だれもこの石とキャンバスの間を通らなかった。多分通り抜けてもいいし、人ひとりが通れるくらいのスペースは石とキャンバスの間にはあるのに、誰もそうしない。
そんな無粋なことできないと自然と思ってしまうように、石とキャンバスの間には何か目には見えない糸がピンと張っているような結びつきが発生しているからでしょう。両者が対峙するようには見えないし、遠すぎると関係性が崩れてそれぞれ独立してしまう。《関係項》というタイトルはまさにそのことを示しています。
無料の音声ガイドが大充実
実に充実した鑑賞体験でしたが、その体験をもたらしてくれたのも、偏に音声ガイドが大きかったと言えます。現代アート、特に「もの派」のように一見しただけでは作家の意図を汲み取りづらい作品などは、「見て感じろ(考えろ)」はハードルが高いものですから。
本展の音声ガイドは無料で、基本的には各自のスマートフォンでQRコードを読み取って音声を聞く方式です。(スマホがない人用などにガイド機器の貸し出しもあります)
手持ちのスマートフォンを使う場合、多くの美術館ではイヤホンが必須なのですが、本展ではイヤホンを持っていなければスピーカーで再生してもOKでした(イヤホン推奨ではありますが)。
私も普段あまりイヤホンを持ち歩かないので、イヤホンがないという理由で何度か音声ガイドを断念したことがあるので、この運営はかなり助かりました。
中谷美紀さんのナレーションは非の打ち所がない淀みない語りに加え、実際に世界で李禹煥の作品を鑑賞した感想や、作家本人と対談まであって大充実の内容。また担当キュレーターの米田さんの解説もあって、これを無料で利用できて料金1,700円は大満足!!
満腹家もぐもぐさんのイラストによる鑑賞ガイドも楽しく作家の経歴を学べる!
また、会場内で配布されている鑑賞ガイドは、ぜひ持って帰りたい。
今回の展示の構成や音声ガイドの内容は、それぞれのシリーズ作品について、あるいは作家の思想を軸にまとめられているですが、逆に言えば作家個人の人生そのものは見えないようになっています。
しかし、この鑑賞ガイドでは、李禹煥という一人の人間の生涯に焦点が当たっています。「いつ生まれて、どういう子供時代を過ごして、美術の道にどう進んで何から影響を受けて・・・・」という作家個人の歩みを知ることができます。
展覧会の鑑賞中はもちろん、振り返り用としても分かりやすくて展覧会の鑑賞の補強にもなる優れたガイドブックだと思いました。うまく音声ガイドとこの「鑑賞ガイド」パンフレットの住み分けができているのはいいなと思いました。
ちなみにこの鑑賞ガイドにも記されている、李禹煥に影響を与えた作家のひとり、高松次郎の「影」という作品ですが、ちょうど「リヒター展」を観に豊田市美術館に行った際に、同様の作品が展示されていました。(下記の記事のコレクション展の項目をご参照ください)
兵庫県立美術館に巡回
もし、「東京展にはもう間に合わない!」という方に朗報。本展はこの後兵庫県立美術館に巡回します。
兵庫県立美術館は安藤忠雄による建築ですが、直島(香川県)にある李禹煥美術館も安藤忠雄が建築を手掛けています。なので安藤忠雄建築の中で見る李禹煥の作品というのは、まさに絶好のロケーションとも言えますね。
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