能狂言『日出処の天子』レビュー

エンタメ

2025年12月2日。約半年前のリベンジを果たしに観世能楽堂を訪れた。

目的は、そう『能狂言 日出処の天子』を観るためだ。山岸涼子原作の同名の漫画を舞台化、しかも能・狂言による演出。これは期待しかない!本来なら8月の初演を見たかったのだが、残念ながらチケットが取れなかった。

悔し思いを煮えたぎらせているところへ、今回の再演の情報が舞い込み、速攻チケットを取った。

「作画・山岸涼子!!」というべき主演の2人

当日の配役

主演である厩戸王子を狂言師・野村萬斎、その思い人となる蘇我毛人(えみし/後の蘇我蝦夷)を能楽ワキ方の福王和幸が演じる。この2人のキャスティングだけでも期待大だったが、実際に始まってみると、「原作そのまま」といいたくなるくらいに、そこに「厩戸王子」と「蘇我毛人」がいた。

萬斎さんは決してプロポーションなどが必ずしも原作の王子に似ているということではないのだが、その圧倒的な存在感、位の高い身分という内側からにじみ出る品格、神仏に通じる超人的な能力を持つという設定への説得力(そりゃ、以前に陰陽師やってた人ですものね。人知を超えた力くらい持ってておかしくない)、必要あらば人ひとり殺めるくらい訳なく行える冷徹さ、内面にじっと毛人への思いを抱えるこじらせ具合、その眼差し全てが「王子」そのものであった。

誰もが頭の中に原作の麗しい厩戸王子のビジュアルを思い浮かべている中で、「おなごのような」「齢10歳」というような前置きで直面(ひためん/能面をつけないで演じること)で堂々と出てくることができる野村萬斎氏(実年齢59歳!)の怖ろしさよ。

そして福王さんの蘇我毛人がこれまた「毛人オブ毛人」というべき完璧なビジュアル。こちらはビジュアル・プロポーションそのものが原作そのままのような出で立ちで、かつ清廉潔白さ、自分の魅力に無自覚(ゆえに相手にとっては時に残酷)な感じが似合う似合う。

この2人を軸に、コミカルな部分は狂言師が、刀自古(とじこ)や布都姫(ふつひめ)などは能楽師が務めており、適材適所な配役で納得のキャスティング。

斬新な舞台装置&随所に仕込まれた「能」の演出

会場

今回の舞台装置や演出面も、非常に練られていると感じた。

実は能楽堂に入り、その舞台を見た瞬間は「えっ!?」と思った。なぜなら能舞台の要と言ってもいい「鏡板(かがみいた)」が衝立や、中央の4枚のパネルでほとんど見えない状態だったからだ。古典の能でも大きな装置を作ることはあってもこれほど全面的に松が隠れるものはないのではないだろうか。

一抹の不安を覚えたが、実際に舞台が始まると、実はこの4枚のパネルが素晴らしい役目を果たしていた。可動式のパネルは、八角形の半分にしたような形で置けば、聖徳太子ゆかりの法隆寺夢殿を思わせ、両端を90度にまげてコの字型にすれば玉座になる。またスクリーンとしてパネルの裏側に入った人物の動きをシルエットで表して建物の中の秘儀を写し出したり、神秘的な映像などで宇宙を表現したりとさまざまな役割を果たしていた。

しかも、今回のキャッチコピーの「胞(はら)と宙(そら)」。物語を知っていると、このコピーの恐ろしさ、美しさ、おぞましさ、悲しさに、感情がかき乱されて狂いそうになるのだが、その「胞」と「宙」を、このパネルに投影された映像やシルエットで表現されている。またそもそもパネルによって「囲われた空間」という構成こそが「内側」の表現になっており、「胞と宙」の内なる神秘に溢れた本作の世界を見事に体現している。(私はここでいう「宙」は王子の超人的な力に通じるものとして解釈しているので、いずれにしても「内側」で起こる神秘と考える)

映像を用いるなど斬新な演出の一方で、随所に能の演出、様式が踏襲されており、古典芸能のもつ象徴性、そこから醸し出される悠久の時間、格調高さも担保されている。

たとえば、前半で帝が亡くなるところを着物だけで表現する演出は、『葵上』を彷彿とさせる。『葵上』は、『源氏物語』の光源氏の正妻である葵上が病床に臥す様子を着物一枚を舞台の上に置くことで表す。また実の兄に恋心を抱き、挙句の果てには兄の思い人である布都姫と偽り、兄と不義の契りを交わし、その子を宿す刀自古には鱗文様の唐織を着せているのも、『道成寺』を踏まえているからだろう。『道成寺』は、愛する男を追いかけるうちに大蛇となった清姫伝説を素材としており、主人公の花子は鱗文様を着るのが通例だ。

斬新な手法と古典的な様式をうまく織り交ぜて、観る人を飛鳥の時代に誘い、かつ「ただ古風」なせかいではない、『日出処の天子』の世界に没入させることに成功している。

物語の展開について

ロビーに飾られたお花

物語の展開はというと、前半50分、後半60分の約2時間で漫画全編をカバーしようとしているので、どうしても展開が早く、ゆえに登場人物の心情をじっくりと掘り下げる時間はない。「そこは原作を読んでいることを前提として補完してもらう」ということだろう。潔いといえば潔い。

基本的な能の構成は、武士や女性、天女など、「主役(シテ方)が演じる役柄の思いを聞く」ことが軸になっており、いわゆる「出来事」がどんどん起こるものではない。時間の流れ方が全然違う。客観的な時間軸でいえばわずかな出来事、その中にある「心情」を1時間かけて表現する。そういうイメージだ。しかし今回は出来事をどんどん展開させつことを優先しており、そこが「能」という芸能の特質(時間の流れ)との相性が難しい所でもあると感じた。

また主演を務める2人が狂言師とワキ方なので、どうしても基本の展開は台詞劇となり、「能」らしさは地謡(じうたい)や能面を付ける女性の役柄が担うことになっている。後半「能の”舞”はないのかな」と思った頃にようやく刀自古(大槻文蔵)が、毛人の子を身ごもり、自害しようとするシーンで、乱拍子のような舞を見せる。

もう少し、王子や毛人の心の裡、前半では互いに惹かれ合うシーン、葛藤、大切に思いながらもその道がズレていくシーンなど、じっくりと見せる部分があっても良かったのではないかと思う。(そうした部分が全くない訳ではないのだが、全体的に性急ではあった)

それでもこの『日出処の天子』を舞台として目の前に立ち現れたことの感動が勝る訳なので、今回のこの舞台を実現することができた全ての人たちに感謝したい。

グッズも大充実

パンフレットのほか、ご朱印帳、チケットホルダー、付箋、一筆箋、クリアしおりセット、扇子などなど…

今回、グッズも大充実で「本日分完売」の声がなければ大いに散財していたことだろう。能楽堂でグッズ売り場にレーンができているのを初めて見た。個人的にはご朱印帳が残っていたら買っていたのだが、私が買おうと決意する寸前で完売と相成ってしまった。

ということで今回はステッカーのみゲット。

ダイカットステッカー(300円)

来年、大阪、北海道、愛知での上演が発表された『日出処の天子』。今後もさらに磨かれていくのだろう。私たちは永遠にこの美しく悲しい王子に惹かれ続けるのだ。

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