【書評】田中泯『ミニシミテ』

本・漫画

先日、日本アカデミー賞の授賞式が行われた。個人的には『国宝』が総なめ、中でも助演男優賞は田中泯氏が獲ると確信していたが、結果は最優秀助演男優賞は佐藤二朗氏に決まった。受賞に至らなかったのは非常に残念だが、だからといって彼の演技の素晴らしさ、功績が損なわれることはない。

そして、世間が『国宝』が(日本でもアメリカでも)アカデミー賞を受賞するかどうかに注目している中、私は一冊の本に向き合っていた。

書誌情報

書名:ミニシミテ
著者:田中泯
出版社:講談社
発行:2024年(初版)
ジャンル:随筆/美術/人生哲学

本書の概要

本書は「山梨日日新聞」で2015年から2023年に掲載された氏の「えんぴつが歩く」と題されたエッセイから抜粋し、改題・加筆修正したものだ。

ダンサーとして世界的に活動する一方で、1985年からは山梨県に移住し、「農業」と「舞踊」の同時実践を始めた田中泯。「ミニシミテ(身に染みて)」というタイトルは、そんな二重生活(どちらも体資本の活動)の中で、実感を伴った言葉として獲得した「生き方」とも言うべき言葉だ。そのため、本書では、土にまみれ、世界中でその身を人々の目に、場にさらしてきた、「田中泯」という人間の肉体を通して生まれ出た素直な言葉が綴られている。

本書を手に取った理由

本書を読むきっかけになったのは、先日、能楽堂でのパフォーマンスを見たからだ。その時のパフォーマンスのレビューはこのブログでも書いた。

この時のパフォーマンスに圧倒されたので、俄然「田中泯」というダンサー、表現者に興味が湧き、すぐさま本書を手に取った。

印象に残ったことばと感想

田中泯の文章は独特だ。鉛筆(文中ではずっと「えんぴつ」と表記)で原稿用紙に書く、実にアナログな手法で田中泯の言葉は綴られる。だからこそか、話は氏の心の赴くままに向かい、時には社会(政治家)への「喝」や「反旗の声」で締めくくられる。まるで大きな独り言を聞いているような気分だ。

理路整然としている訳ではないが、血肉通った言葉として伝わってくる。文体もである調が一分だけですます調になったりと、一貫性がない箇所もある。つまり「上手い」文章ではないのだ。だが、「いい」文章だ。少なくとも私にはこれほど「血の通った文章」は書けない、と思った。

「ミニシミテ」「言葉はカラダ」

私がそう思ったのももっともで、ダンスという身体表現、その中でも「音楽(リズム)に合わせて決められた振付を踊る」ということではなく、「即興」で、「その瞬間感じたこと」を手掛かりに踊りとして表現するスタイルを続けている田中にとって、「身体」の存在、「身体」を通すことの意味は大きく、重い。

そのため、本書の中でも随所に「言葉」と「カラダ」(著者は「カラダ」と表記する)の関係について田中流の思考が綴られれいる。本書のタイトルにもなり、氏にとっても重要な言葉「ミニシミテ」と題された文章の中で、この言葉の意味を「言葉が身体に残ることなく消費されてゆくことへの警鐘」という表現があった。

私がぼんやりと恐れていたことを言い得た言葉だった。私は時々自分が「似非者(えせもの)」だと感じる時がある。私は私以外に何者でもなく、何を持って「似非」だと思うのか分からないでいたのだが、つまるところ上滑りするような「言葉」を使う自分を「似非」だと思うのだと気づいた。あるいは知識武装ばかりして(というほどの知識量でもないのだが)、そこに「身体」が伴っていないのだ。

カラダを使って、踊り、あるいは俳優として演じるという経験を積んできた著者だからこそ、「言葉」と「カラダ」の関係・距離感を敏感に感じ取り、また「言葉」によって表現できるのだ。

「感覚は発見するもの」

えんぴつ(鉛筆)はナイフで削って芯を出す。そんな少年時代を過ごした田中にとって、ノック1つで出てくるシャープペンシルなどの利便性を追求したことにより、それまで「ナイフ」は身近な「道具」であったものが「危険物」となったことは、身体性(=感覚)の喪失と危惧する。

ナイフは危険な物だから取り上げる(遠ざける)姿勢は、感覚を発見し育てる機会を奪うことになるという話だ。この「感覚は発見する」という言葉が印象深い。

少し田中の意図とはそれるが、私も「感覚」や「感情」というものは「自然」に出てくるものではないと考えている。赤子には「憂鬱」がない。「憂鬱」という言葉を知り、人は曰く言い難かった感覚(感情)を「憂鬱」と感じることができるようになる。「感覚」は「言葉」と共に生まれる、あるいは「言葉」によって「発見される」ものとも言える。

身体的な経験を伴う「感覚」の発見を唱える田中とは逆のアプローチのように思えるかもしれないが、私もここ最近では「身体性」に注目している。それ故に始めたのが、「能の稽古(謡・仕舞)」と「茶道」だ。「舞を舞う」こと、「道具を使って茶を点てる」こと、そうした身体を伴って「美」というものに向き合いたい(感じたい)と思ったのだ。

ゆえに、舞踊という身体表現の第一人者である田中が、これほど言葉とカラダの関係を追求していることに厚かましいがシンパシーを感じた。

「見えない物事に対しての良心こそが人間の証拠」

「空気」「気配」…目に見えない「気」の話。通りすがりの人がちょっと「気」になる。そうした見えないけれども「見えている」感覚についての話の締めくくりとして綴られた言葉が、「見えない物事に対しての良心こそが人間の証拠」という言葉だった。

不思議な言い回しでもあり、でも「言いたいことは分かる」と思えるだけの説得力もある。一種の慎ましさをも感じさせる。

少し書評を離れるが、おそらく昔の人はもっと「見えない物事」が「見えていた」のだろうと思う。近世から、近代、現代になるにつれて、「世界」は「科学」という光で隅々まで明るくなった。それを「文明」とか「進化」とか呼ぶのだろうが、その力に胡坐をかくことは田中のいう「良心」に反し、いずれその姿勢は暴力へと変わるだろう。

科学が発展することで、人間は見えない物事を見る力が弱まったのではないかと思っている。理屈や科学(あるいは言葉)で覆い尽くされた言葉の網の目に引っ掛からない微細な、でも確かにある(見えないレベルの)物事を感じ取れる身体を持ちたいと願う。

まとめ

文章を書く時、ついつい筆が進んで…いや、筆などもう使っていない。キーボードを打つ手が進んで言葉が独り歩きすることがある。溢れ出る思いが自意識よりも先に手を動かすこともあるが、一方で、やけに「かっこつけた」コトバを連ねてしまい、そこに「実感」との乖離が出ることがある。

田中の言葉は、そうした「頭でっかち」で出てきた言葉ではない。カラダを、血を、肉を通して得た感覚に根付いている。それが田中の綴る言葉からにじみ出ている。なので文章によってはものすごく読みやすい時もあれば、少し読みにくい(田中の感覚に自分の理解が追い付かない)時があるが、その独特の文体に触れることは、田中泯という表現者のカラダそのものに触れる、あるいは同化しようとするようなものだ。

今ではデジタル(インターネット)の世界を生き抜くことが「世界」の主流のようになっている節があるが、そうした世の中で、最も原初的かつ根本的な「カラダ(身体)」を使って経験し、感じ、生きることの意味を示す一冊だ。

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