天使の手を握り、悪魔と契約したアシリパーー救済者としての杉元と尾形

本・漫画

※この記事は2021年8月29日にnoteに書いたものを再掲しています。

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北海道を舞台に、日露戦争で”不死身の杉元”と言われた杉元佐一と、アイヌ民族の少女アシ(リ)パ(※本来の「リ」の表記は小文字)が、アイヌの金塊を求めて様々な冒険と試練を乗り越える『ゴールデンカムイ』。連載が最終章に入るタイミングで、webで全話無料公開という大太っ腹な企画で本作を一気読みした。以前にも網走監獄のあたりまで単行本で読んでいていたが、「まぁ面白いな」位だったのだが、今回改めて最新話まで読んでめちゃくちゃハマってしまった。ここ一週間は『ゴールデンカムイ』の事ばかり考えている。いや、包み隠さず言えば尾形の事ばかり考えている。色んな感情がグルグルして、尾形という存在がどういう者であるかを理解したくtwitterなどで飛び交う様々なコメントや考察に「ふーむ、なるほど」とわかった気になったり、余計掴みどころがなくなったり・・・・そんな中でふと気づくことがあった。

「杉元と尾形って結構同じことを言っていないか。」

方や杉元はアシリパの相棒で、方や尾形は網走監獄編で仲間を裏切り187話では「お前達のような奴らがいて良いはずがないんだ」とアシ(リ)パに銃を向ける。性格もやってる事も真逆な二人だが、実は同じことを言っているところがある。

似たような発言をする杉元と尾形

①「殺し」という行為に対する正当化
この考えのきっかけとなったのが杉元とアシ(リ)パの下記のシーン。

悪人は人の心が欠けているから普通の人間より痛みを感じにくいはずなんだ。」
「子供だと思ってバカにしているのか?そんな理屈でごまかすな。」
「俺はそう思うようにしてきた…戦争のときもロスケは俺たち日本人とは違って苦しまずに死ぬはずだって…(略)」
                      (100話「大雪山」より)

「不死身の杉元」の強さの奥には、”人を殺す”という異常行動を半強制的にしなければいけなかった状況下で、どんなに子供じみた理屈でもいいから「正当化」が必要だったことがわかり、杉元の苦しみ、弱さが露わになる場面だ。でもあの尾形も実は同じようなことを言っている。

「宇佐美、お前ロシア兵を殺して悪かったなと思わないよな?」
「思わない」
殺されるのはそれなりの非があるからだ
「うんうんわかる」
誰だって罪を犯しうるんだ。そいつらを殺して罪悪感なんてわかないだろう
「ないね」               (243話「上等兵たち」より)

「誰が誰に何を相談しとんねん!」と読者総ツッコミしたであろうシーン。母親を(恐らく)平然と殺したサイコパスが、友人を躊躇なく踏みつけて殺したサイコパスに殺しの正当化を確認する実にシュールな場面なのだけど、正当化の仕方(相手に非があるから殺してもいい)が実は杉元と一緒だ。というより「正当化しないと”殺し”という行為を受け止められない」という点で一緒だと思う。多分宇佐美は尾形が同調してほしそうだから賛同しているだけで、宇佐美自身は正当化は不要で「殺したいから殺す」ができる人。なので宇佐美が尾形の立場だった時、宇佐美はわざわざ問う事はしないと思う。何ならその場で勇作なり捕虜を殺すだろう。表面上は狙撃兵として冷淡に振舞っているし、殺してしまって”罪悪感”がなくても、おそらく尾形は「道理」がないと殺せないのではないだろうか。

②「アイヌ」を背負おうとするアシ(リ)パへの思い

さて、そこを思うと、あるシーンがすごく気になってくる。176話でアシ(リ)パちが、かつてウィルク(アシリパの父)とキロランケと共に極東民族の独立のため闘ったソフィアを脱獄させることを決める時のシーン。アシ(リ)パが「その人達の協力で金塊を見つけたとして本当にアイヌのためになるの?」という言葉を言った時の尾形の顔、さらにその次のコマでは横目でアシ(リ)パの心情を慮るような表情を見せる。やけに尾形が反応しているのが気にかかったのだ。尾形の立場がいまだよく分からないので、この1コマはどうとでも読めるので何とも言えないが、読者に提示されている状況だけで考えれば、尾形は自分の取り分が得られれば、アシ(リ)パの使い方やアイヌの問題など尾形の性格からしたら興味ないはずのでは??と。

そして、問題の猛吹雪の中での尾形の裏切りのシーン。アシ(リ)パをキロランケや白石から離し、暗号の鍵を聞き出すところで尾形はこう言う。

「暗号の解き方を教えてくれればアシ(リ)パもこの殺し合いから「上がり」だ…(中略)…故郷の山で鹿を獲って自由に生きていけばいい
「アイヌの事はキロランケやソフィアに任せたらいい。お前がそんな重荷を背負うことはない」              (185話「再会」より)

先程のアシ(リ)パの発言は、もはや「父の事が知りたい!父が自分に託したことを知りたい」という当初の旅の理由であった、子供らしい願望の域を超えた瞬間でもある。つまり本来ウィルクの野望であった極東民族の独立⇒アイヌ(北海道)の独立という野望をアシ(リ)パが引き継ごうとし始めたということで、176話での尾形の表情はそのことを憂えているのではないだろうか。185話ではっきりと「重荷を背負う必要はない」と言う。

そして同じことを杉元も言う。

「キロランケニ(シ)パが命をかけて伝えてきたのに…私はもう無関係ではいられない」
戦うのはアシ(リ)パさんじゃ無くたっていいはずだ
(中略)
ウィルクは…何も知らないアシ(リ)パさんを金塊争奪のなかに巻き込んだ。キロランケも (中略) 戦って守るしかないのだという選択肢へアシ(リ)パさんを追い込んでしまった。俺はそれが許せない」
                    (206話「二人の距離」より)

このように、随所で似たようなことを言っている二人なのに作中でも読者にとってもその印象は真逆だ。これは一体、二人の何が一緒で、何が違うからなのだろう。

親の業から逃げた杉元/逃げれなかった尾形

前述の②についていえば、杉元も尾形も「親の業を子が請け負う必要などない」と訴えているのだ。なぜ二人とも直接アイヌ(極東)の問題には関係ないのに同じように憂えるのか、そしてなぜ杉元はアシ(リ)パの手を引き、尾形はアシ(リ)パに銃を向けたのか。

それは二人がそれぞれ「親の業」を受けている点で同じで、それに対しての結果が異なるからなのだと思う。杉元は家族が結核を患い、そのせいで村人から排除され、好きな人と一緒になる事も叶わなかった。結核を患う事を「業」とするのは本来適切ではないのだが、「親の状況のせいで子供が憂き目に遭う」という点と、尾形との対比を語る便宜上ここでは「業」と言わせてもらう。その「業」の中で、幸いなことに杉元は父親から「家を離れ、村を離れ、好きなように生きていい」と言われる。そうして杉元は自分の道を自分で選んで陸軍へと進んだ。「勇作さんお見合い替玉事件」のエピソードからも分かるように、令嬢との結婚という選択肢がありながら、杉元は瞳を輝かせて陸軍へと入る道を選ぶ。そしてその後の道の辛さ(戦う事は人を殺すことであり、その殺すという行為の辛さ)を知っている。

だから、彼は言うのだ。「親が残した業を請け負う必要はない。ーーでも、もしそれを請け負おうとするのなら、全力で守る」と。そうして少女の手を掴む。

一方、尾形は父・花沢幸次郎の妾で浅草芸者の母を持つ。生まれながらに父親の業を受け、そのせいで本来祝福を与えてくれるはずの母はおかしくなっていき、二重の苦しみを受ける。尾形少年は少年なりにその業から逃れようと鳥を撃つも、母は変わらず父の好きだと言ったあんこう鍋を作る。遂にはそこから脱却することはできないと悟った少年は母親を殺すけれども、結局は陸軍の中で「花沢幸次郎の妾腹の子」として存在している。どういう経緯で陸軍に入ったかは現時点で明らかになっていないが、母を殺せど、優秀な狙撃兵となれど、尾形は決して「尾形百之助」個人ではなく「山猫の子供は山猫」として生きるしかなかった。親の業から逃げれなかった(抜け出せなかった)者なのだ。

だから、彼は言うのだ。「親が残した業を請け負う必要はない。ーーでも、もしそれを請け負おうとするのなら、堕ちるべきだ」と。そうして少女に銃口を向ける。

花沢勇作にも問いかけていた杉元と尾形

”清い”ままの偶像として尾形の精神(人生)に大きく圧し掛かる、異母弟の花沢勇作という存在。樺太ではまさにその”清い”ままの偶像として勇作とアシ(リ)パを重ねる描写がある。また、だからこそ尾形はアシ(リ)パに銃を向けて「(殺す)道理をやろう」と、自らがアシ(リ)パの父・ウィルクを網走監獄で殺したことを明かし、アシ(リ)パに「道理があれば人を殺してもいい」のだと教え、父の示した道を歩む覚悟があるなら戦うべきだ、殺しを知るべきだ」と問いかけるのだが、それより以前に杉元も尾形も、勇作に対して同様に問いかけている。

「勇作のお見合い替玉事件」で勇作の童貞を守るためにお見合いの替玉となった杉元が、勇作に聯隊旗手となることへの本心を尋ねる。勇作は父の教えの通り、聯隊旗手になれるならば誇りであると言い切る。
一方尾形は日露戦争中に一度もロシア兵を殺していない勇作に対して「殺すところがみたい」とロシアの捕虜を殺害するよう促す。しかし勇作は父の教えの通り、人を殺さない事で偶像になるからと断る。

ここでも、杉元と尾形は1つの問い(であり願い)を言っているのだ。「親の業(ここでは意思・言葉)のために偶像になる必要はない」と。

そう思うと、(杉元は分かりやすいが)尾形もまた、勇作、そしてアシ(リ)パを救済しようとしているのだと思った。杉本は自分がその業から逃れたからこそ今の自分があり、その今の自分がたどった道の辛さを知っているからこそ、アシ(リ)パをその道に陥らせたくないと頑なに願う。尾形は、自分がその業から逃れられなかったからこそ、逃れる道があるなら逃れてほしいと願い、それでも「戦う」道を進むというのなら”清い”ままでいるべきではないと言う。(方法があまりに”尾形らしい”ので救済しようとしているのに気づきにくいが、彼なりの救済方法なのだと私は思いたい。なんせ尾形贔屓なもので)

「天使と悪魔」と言う表現があるが、杉元が「天使的問い(願い)」で救済しようとするのに対し、尾形は「悪魔的問い(願い)」で「業」から解き放とうとする。救わんとする状態は同じ方向なのに、アプローチが真逆なのだ。

清い手、暗い瞳

さて、結局アシ(リ)パはというと、当然尾形の手を払い、樺太から北海道に戻り、再び杉元と共に金塊探しをする。206話で杉元が自身の願いであり救済の手(金塊争奪戦の戦から下りる)は掴まず、共に”戦う”道を二人で進むことを誓い合う。‥‥しかし、しかしだ。215話「流氷の天使」でアシ(リ)パは密かに杉元の思いとは裏腹の決意をする。

杉元はとても優しい男だから暗号の解読法を知ったらやっぱりまた私を置いてひとりで金塊を探しに行ってしまうだろう
魂が抜けるまでひとりで傷つくんだろう
(中略)
弾除けとなってこの男を守れるのは私だけだ
私が強力な盾となる
そしていざとなれば…そう…「道理」があれば
私は杉元佐一と一緒に地獄へ落ちる覚悟だ

ラストの一文、キラキラしていたアシ(リ)パの眼はスッと暗く落ちていく。その手は依然きれいなままであるが、その眼は”清い”人のそれではない。そして何より、尾形の口にした「道理」を、アシ(リ)パは心の中で呟いた。

杉元という天使の手を繋ぎながら、尾形という悪魔が示した「道理」を見据えるアシ(リ)パ。彼女にこれだけの顔をさせた以上、「手を汚すのは俺がやる、アシ(リ)パさんは知恵だけ貸してくれ」と言ってた当初の頃の痛快バディなノリでは終わらせないだろう。

その「いざ」という時、アシ(リ)パはどういう行動を取るのか…。
それは救済の手を差し伸べると同時に自らを救済したかった杉元と尾形は、アシ(リ)パを救えるのか、そして自身は救われるのか…。
これからの展開が楽しみで仕方がない。

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