「ゲルハルト・リヒター」展@豊田市美術館

美術

「ゲルハルト・リヒター」展@豊田市美術館 概要

2022年6月7日~10月2日まで東京国立近代美術館で開催されていた「ゲルハルト・リヒター」展。絶対行こうと思っていたのに、「勉強してから行くべきか…」とビビっていたのと会期を勘違いして、見逃してしまった。そこで「愛知でリベンジ‼」ということで、本業の出張で名古屋に行くのに合わせて行ってきた。

結論から言うと、東京で見逃した方は絶対行った方がいい。東京展を観た人もできるなら愛知展も見てほしい。

東京展との比較はできないが、この豊田市美術館の空間、そして(後述するが)リヒター展とコレクション展が共鳴していて素晴らしい体験だった。ぜひともこの空間の中で、リヒター展を堪能してほしい。

豊田市美術館 中庭より
展覧会概要

「ゲルハルト・リヒター」展
会期:2022年10月15日[土]-2023年1月29日[日]
開館時間:午前10時-午後5時30分[入場は午後5時まで]
休館日:月曜日[2023年1月9日は開館]
[2022年12月28日-2023年1月4日は休館]
観覧料:一般1,400円、高校生・大学生800円、中学生以下無料
展覧会HP:https://richter.exhibit.jp/

ゲルハルト・リヒターとは? さまざまなキーワードからひも解く

ゲルハルト・リヒターは世界で活躍する注目すべき現代アーティストの一人で、今回の展覧会は日本の美術館では16年ぶりとなる大規模な個展だ。

リヒターは1932年にドレスデンに生まれ、1960年代にデュッセルドルフの芸術アカデミーで学びます。そのころから一貫して絵画を手掛けながらも、身近な写真を拡大して描く〈フォトペインティング〉、ガラスや鏡を用いた作品、巨大なカラーチャート、そして抽象絵画など、今日絵画が持つ可能性を最大限に展開しながら、わたしたちがイメージを思い浮かべ、見つめ、そして作り出す、その条件自体を問う制作を続けてきました。それはまた、第二次世界大戦からの東西分裂と統一を経験した自国ドイツの歴史も背景に、イメージがいかに真実性を持ち得るかを検証する長きにわたる実践でもありました。

展覧会HP

愛知展の展覧会では、1~3Fまでを大まかに時代順に分け、1Fでは1960年代から2014年の《ビルケナウ》まで、2~3Fはそれ以降~最新作まで、と分けられている。

その中で、1Fでは「フォト・ペインティング」「アブストラクト・ペインティング」「グレイ」「カラーチャートと公共空間」、そして「ビルケナウ」というキーワードを軸に展示が構成されている。ここからは、リヒターの関心が「具象/抽象」「絵画/写真」「グレイ/色彩」「プライベート/パブリック」「生/死」といった様々な対比関係に向けられていたことに気づく。

そして2~3Fでは、引き続き後半期の「アブストラクト・ペインティング」のほかに「ドローイング」作品が展示されている。

フォト・ペインティング

展覧会は、まずリヒターの画業の初期に行われた「フォト・ペインティング」と「グレイ」が取り上げられている。フォト・ペインティングは、新聞や雑誌に掲載された写真や、家族の写真をそのままキャンバスに再現するように描いた作品だ。

《モーターボート》(第1ヴァージョン)1965 油彩、キャンバス
《頭蓋骨》1983 油彩、キャンバス

カメラという機械を通して作られた、ある種の無機質なイメージを絵筆で描き直すことで、それまでの絵画の”約束事”であったり、画家の”主体性”を排除する。このフォト・ペインティングは、その後のリヒターの制作の根幹にもなる「絵画と写真の関係性」において、最初のアプローチと言えるだろう。

またこの時、わざと刷毛で表面をこすり「ぼけ」を発生させている。客観性が高いとされる写真というイメージを使いながら、それをあえて描き(しかもわざと”ぼかす”ことで)そのイメージがどこか曖昧さを帯びていく。

この《モーターボート》を見ても、描かれている彼らは、(写真に残っているのだから)かつて実際にモーターボートに乗り、このようにはしゃいでいたことは事実であるはずなのに、どこか非現実的に見える。かといって”すべて作り事”と言うには現実的で限定的なシチュエーションだ。

見れば見るほど遠ざかる感覚。「現実」のはずなのに「現実感のない」不思議な感覚がいつまでも続く。

グレイという色

《グレイの縞模様》1968 油彩、キャンバス
《グレイ(樹皮)》1973 油彩 キャンバス

このフォト・ペインティングと同じ空間に展示されているのが、「グレイ」という作品。リヒターは1960年代後半、こうした灰色一色で描く「グレイ・ペインティング」シリーズを制作した。灰色という色を何の感情(連想)も呼び起こさない「無を示すのに最適」な色と考えていたようだ。

しかし、一方ですべての色を混ぜれば灰色になるように、灰色という色が持つ「無」であり「有」という両義的な側面を感じ取っていたからこそ、灰色という色に注目したのだと思える。

ちなみに私は「リヒターといえば灰色」というイメージがあり、その理由に院生時代の時に岡田温司先生の授業で、先生の著書『半透明の美学』を読んだからだ。この本は「半透明」をテーマにした本で、その中でこれまで否定的もしくは消極的に扱われていたもの(灰色、埃、ヴェール)を題材にした作家として、リヒターの灰色が取り上げられている。

本書では、灰色の「白でもなければ黒でもない」という特性は、翻って「白でもあるし黒でもある」ということであり、これまで様々な画家たちがその灰色の不思議な魔力に警戒し、惹かれていたかを語っている。

《鏡》1986 向かいに展示されている《グレイの縞模様》を写し出す

《グレイ》シリーズが展示されている部屋には、《鏡》という作品も展示されている。これが《グレイ》シリーズの作品と同じ空間に展示されていることは興味深い。

鏡もまた「自ら何かを主張することはない」という意味で、灰色の「白でもなければ黒でもない」という主体性の無さと通じる。一方で「全てを映す」点は、「全ての色を混ぜれば灰色になる」ということに通じる。

「白/黒」の間にある「灰色」と、「実像/虚像」の間にある「鏡」。何かしらの”意味”を持つか持たないかのちょうどギリギリの位置にある「灰色/鏡」に鑑賞者は挟まれることになる。

鏡に映った”自分(の姿)”に対して、「自分」だけれども、実体の「自分」とは別のものに感じることはないだろうか。虚像の「自分」と「(肉体を持つ)自分」との間にズレが生じている感覚に襲われる。

不思議なことに、この空間の中で鑑賞する”自分自身”という存在さえ、どこか曖昧なものになってくる。

アブストラクト・ペインティング/オイル・オン・フォト

アブストラクト・ペインティングは、1970年代後半にパレットの上の絵の具の写真や、自作の一部分を写した写真をフォト・ペインティングと同じように、キャンバスに拡大して描いたことから始まる。

この手法はやがて、キャンバスの上の絵の具を「スキージ」と呼ばれる自作の長いへらで絵の具を延ばしたり、削り取ったりして描く方法へと変化していき、作品はより不確実性を帯びていくことになる。

《アブストラクト・ペインティング》1992 油彩、アルミニウム

作者の意図(コントロール)を極力排除するような試みは、フォト・ペインティングと手法は違えど同じ方向性と言えるだろう。既に作り上げたイメージを、ヘラでその表面を均質にならしていったり、あるいは削り取ったりする行為それ自体は、本来「描く」という行為に対してネガティブな位置づけだ。その手法でもって「描く」という点に、リヒターらしい対立概念の共存がうかがえる。

またここでは「オイル・オン・フォト」と呼ばれる一群の作品も展示されている。リヒターはこのように写真に油絵の具を塗って、画面の中の世界を新たに創造する。塗られる絵の具は必ずしも下の写真に呼応したり馴染むようには塗られない。時には被写体を覆うように、あるいは絵の具の塊がそのままボタッと落ちたように残っている。

写真の中が、奥行きのある3次元の世界の再現であるのに対し、絵画(絵の具)は抽象的で物質としての存在感を否応なく感じさせる。絵画と写真、2次元と3次元、抽象と具象…あらゆる対比が調和することなく一つの枠の中に収まっている。

変容し、拡張され続けるイメージ

続く展示室では、それまでの部屋とは一転して、明快でカラフルな色彩に溢れている。

《4900の色》

壁面に飾られているカラフルな作品《4900の色》は、ケルン大聖堂の壁画として制作されたもので、50四方のパネルに25色の色をランダムに配色し、そのパネル全196枚を展示空間によって様々に組み合わせるという作品(25×196=4900)。

《8枚のガラス》

そして展示室の中央には8枚のガラス板がそれぞれ微妙に角度を変えながら並べられた《8枚のガラス》。このガラスの正面に立つと、自分自身の姿が様々に映し出される。しかしガラス板がバラバラに傾いているため、その像もあちこちにまるで浮遊するように浮かび上がる。

《鏡》よりも一層あいまいとなった自分自身の姿は、もはや”自分”とは切り離されたものとなって、ガラス板の層の中で延々と増殖されていく。

《ストリップ》

昨年末、大阪のエスパス・ルイ・ヴィトンで開催された展示で話題となった《ストリップ》シリーズ。今回の展覧会では1点しか展示されていないためわかりづらいが、2011年から始められたこのシリーズは、作品によって全体の色調は様々だが、全て1つの「アブストラクト・ペインティング」の作品が元になっているのだ。

作品を撮影した画像データを、0.3ミリほどの細い帯に細分化していき、その帯を鏡写しにして横につなげていった作品。「絵画/写真」という対比から様々な作品を作り続けてきたリヒターの新たなる試みとして注目の作品だ。

作品の前で前後に動くと、目の錯覚でまるで作品が動いているように見え、「だまし絵」的で楽しい。

この展示室の作品はそれぞれ手法や、作家の関心は異なるところにあるけれども、私の感じたことは「変容し、拡張され続けるイメージ」ということだ。

25色の色彩パネルは、展示される場所に応じて、またパネル同士の組み合わせ方によって様々に変容しさせることができ、この手法であれば(今のところパネルは196枚だが制限をなくせば)いくらでも増殖できる。

同様にガラスに映る像も本来なら実像1に対して1つの虚像だが、8枚のガラス板を重ねることで反射を繰り返して増殖する。しかもガラス板が傾斜がついているため、その像はまるで浮遊するようにあちこちに浮かぶ。

そして《ストリップ》もまた1つの作品から、様々な色調の像を生み続ける。絵画にしろ写真にしろ、対象物「1つ」を画面の中に「固定」するはずのものが、リヒターのこれらの作品では「変容」しながら「拡張(増殖)」していく。

ビルケナウ

そして、今回の展覧会で最も衝撃的だった作品《ビルケナウ》だ。この作品を見るためだけに豊田市美術館を訪れる価値はあると思う。

一見アブストラクト・ペインティングの作品の1つにも思える(手法としてはほぼそうなのだが)。しかし、他のアブストラクト・ペインティングとは異なり、物々しい雰囲気が漂う。

「ビルケナウ」という言葉を聞いて瞬時に思いつく人もいるだろうが、これはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所での凄惨な過去が下敷きになっている。

このビルケナウ収容所での痛ましい光景を撮影した写真4枚がそれぞれのキャンバスに描かれ、その上から、白、黒、赤、緑の絵の具で塗りこめられ引き延ばされている。そのためリヒターの絵からは本来下にあった写真のイメージを読み取ることは不可能だ。これは凄惨な歴史に対して「今は見えないけれど、確実に”そこにある(あった)”」ということを、絵の前に立つ鑑賞者に物理的かつ比喩的に突きつける。

展示室には、作品の元になった4枚の写真も展示されている(撮影不可)。そこには収容所での出来事が生々しく写し出されている。

どれだけ目をこらしても「見ることのできない(だけど確実にそこにあった)」ことに対して、私たちは茫然と立ち尽くすことしかできないのか。この展示室には《ビルケナウ》のほか、”グレイ”の鏡も展示されている。この《ビルケナウ》に対峙する私たちの在り方も、また「映され」て「見られて」いる。ここで何を思い、何を受け取るかが、そのまま1つの”人類史”としてこのグレイの鏡に写されていく。

ドローイング

本展ではリヒターのドローイング作品もまとまって展示されている。リヒターのドローイングを見るのは初めてだったので、こちらも興味深い。

靄のかかったようなぼんやりとした画面の中で、製図のように細く均質な円や直線などの図形が引かれていたりする。抽象と具象(というか図形?)が1つの画面の中に両立するのは、写真の上に絵の具を塗りつける「オイル・オン・フォト」の傾向と近しいように感じられる。

「油彩」からの引退、そして…

《アブストラクト・ペインティング》2017 油彩、キャンバス

2017年、リヒターはこの作品を最後に油絵から引退します。展示室内の解説によると、《ビルケナウ》でやるべきことを果たしたと語るリヒターは、その後も同様に絵の具の表面を削るアブストラクト・ペインティングの手法で制作をしていきますが、より小型のキッチンナイフを使って、画家の手の動きを感じさせるようになります。

それはどこか晩年のモネの作品を思わせるようで、「具象と抽象」の狭間を常に行き来してきたリヒターの到達点として、穏やかで、静かな喜びに包まれている。

そして、展覧会の最後は、最新作にして「油彩」のその後である水彩画作品で締めくくられる。水彩絵の具のにじみという偶然性は、油彩で行っていたアブストラクト・ペインティングよりもさらにコントロールの効かないものとしてリヒターを目を楽しませているのだろう。

水彩絵の具のにじみを使ったこうした作品は、子供の時に一度はやってみたことはないだろうか。そうした「絵画」の楽しみの原点に戻るかのようで、無邪気な気分がそれぞれの画面から溢れている。

展覧会のまとめ

これまで様々な展覧会(美術館)でリヒターの作品を1点~数点を見て、その都度ちょっとわかったような気がして、でも何度リヒターの作品を前にしても「結局リヒターってなんだかよくわからない」となるのだけど、今回その理由が分かった。

リヒターは常に「~でもなければ~でもない」もの、あるいは「~でもあれば~でもある」を突き詰めているからだ。白でも黒でもない「グレイ」、写真でも絵画でもない「フォト・ペインティング」、抽象でもあり具象でもある「オイル・オン・フォト」、”ある”けど見え”ない”《ビルケナウ》…

この世界の理解するのに用いられる二項対立の間(あわい)の部分を表現しているのだ、どこまで行ってもわからないという感覚になるのも無理はない(…と自分を慰める)。今回これだけまとまってリヒターの作品に向かい合った時、いかに日頃何かしらの言葉(カテゴリー)にすぐラベリングして分かった気になったり安心したりしているかに気づかされた。

リヒターの作品を前にして感じる一抹の不安感や、なんとも言い難い浮遊感(あるいは地に足がつかないソワソワした感じ)は、安心できるカテゴリーの枠に収まろうとする我々を、リヒターの作品が「~でもなければ~でもない」ところに引きずり出し、どちらに転べばいいか常に揺れ続ける感覚になるからだろう。

この世界の「~でもなければ~でもない」に漂うことを恐れずに受け止めたとき、世界はもしかしたらもっとクリアに見えるかもしれない、あるいはもっとカラフルに見えるかもしれない。なぜなら「~でもなければ~でもない」は「~でもあるし~でもある」からだ。

☆展覧会の図録はAmazonや楽天からでも購入できます。

コレクション展「反射と反転」も見逃せない

リヒター展だけでも十分に見応えがあるが、ぜひともコレクション展も併せて鑑賞してほしい。

コレクション展もリヒターの作品に共鳴するように、「反射と反転」をテーマにした作品が展示されている。鏡を使った作品や、自分の姿をかたどった作品、あるいは影を描いた作品など…。そうした作品は視覚的な驚きがあると同時に、「存在/不在」という対比を視覚化する作品が多い。

ミケランジェロ・ピストレット《窃視者(M・ピントレットとV・ピサーニ)》1962,72年 アクリル、ステンレス、薄葉紙

この作品は鏡の上に描かれている人物を私(鑑賞者)が見ているのに、その私もまた画面の中に収まってしまい、絵の中の人物たちに見られている。「見る/見られる」の関係がグルグルとめぐるようになっている。

コレクション展概要

会期:2022年10月15日(土)-2023年1月29日(日) 
 ※会期、開館時間、休館日等はリヒター展と同じ
料金:一般300円、高校・大学生200円、中学生以下無料
※リヒター展のチケットでコレクション展の鑑賞可能

名古屋駅から電車で約1時間強に位置する豊田市美術館。このリヒター展のために訪れて損はないと思うので、名古屋に行く予定がある人は少し遠いが足を伸ばしてほしい。

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