大河ドラマ『光る君へ』が始まりましたね。主人公・紫式部ということで、あらためて『源氏物語』が注目されていますが、紫式部が『源氏物語』の着想を得た場所をご存知でしょうか。
その場所は京都ではなく、滋賀の名刹・石山寺。紫式部がこの石山寺に参篭した際に寺からの月を眺めて「今宵は十五夜なりけりと思し出でて…」の一節が浮かんだという逸話から、『源氏物語』の着想の場として知られています。
そんな注目の石山寺ですが、現在の座主(ざす)は、第五十三世鷲尾龍華氏。石山寺の歴史において初めての女性座主である彼女の著書が昨年12月に発売されました。
『ほとけの誓い、おもき石山』
本書は、令和4~5年の2年にわたり、茶道雑誌『淡交』で連載された文章をまとめたもの。1年目の連載は「花の寺だより」と題し、石山寺の境内を彩る四季折々の花に触れながら、鷲尾さんの日々感じる思いが綴られています。2年目は「ほとけの道をゆく」というテーマで、弘法大師や逸話の残る石山寺の歴代座主のお話、曾祖父や、祖父、父のエピソードなどから、「ほとけの道」とは何かを綴っています。
実は鷲尾さんは大学の同級生だったのですが、私が日本美術史、彼女が西洋美術史のゼミに所属したこともあって、実家が石山寺だと知るのは割と学生生活の後半の方だったと思います。座主になって遠い存在になってしまいそうでしたが、ちょうど私も茶道を学び始めたタイミングで、彼女が『淡交』の連載を始めたことに勝手に縁を感じ、久しぶりに連絡を取り、会いに行きました。
そうして私の茶道の先生を紹介し、2022年の秋には石山寺で茶会を開催するという、私にとっても特別な時間を過ごすことができました。
※石山寺での茶会(2022年の様子)については、ブログの過去記事をご覧ください。
感想
前置きが長くなりましたが、いよいよここから本書についての感想です。
表紙を開くと、まずはその写真に圧倒されます。桜、青紅葉、中秋の名月…A5版という決して大きくない判型にもかかわらず、まるで草木の匂いがフワッと漂ってきそうな写真にうっとりしてしまいます。境内全体から感じる穏やかな空気は、京都の背筋がスッと伸びるようなピリッとした空気とも異なる、近江ならではで、その空気が本の中に閉じ込められているようです。
そして文章はというと、私が個人的に鷲尾さんの人となりを知ってるからかもしれませが、彼女らしい誠実で、ひたむきな文章に、おもわず文章そのものを慈しみたくなるような不思議な感覚を覚えました。特に1年目の「花の寺だより」がそうなのだけど、日々移ろう自然の美しさ、たとえば、紅葉の赤色、月のひんやりとした輝き、新緑の鮮やかさ、雨の恵みの匂い…そうしたものを非常に細やかな解像度ですくい上げており、私が普段の生活の中で「すごい」「きれい」「ヤバい」など、大体3文字でまとめてしまいがちな美しさを、「あぁこういう時の美しさはこう表現することができるのか」と教えてもらったような気がします。
石牟礼道子の本を読んだ時に「3分程度の出来事を4ページ分かけて描写する」感じがして、自然に対する圧倒的な解像度の高さ、描写力の確かさこそが作家の魂なのだとつくづく思い知らされたものです。鷲尾さんの文章は、石牟礼道子の”神の眼”のように自然を隈なく見る眼力のような畏怖する感じとは異なり、一人の人間として、女性として、若者として、仏道に励む者としての等身大の眼ですが、自然に対して慈しみと親しみに溢れた眼差しが感じられます。そうした自然に対する描写に、自分の経験や記憶を織り交ぜて綴られた文章は、流れる水のように清々しく、心地よい清涼感を私の心にもたらしてくれます。
全体を通して、劇的な出来事というのはほとんどありません。四季の移ろいや日々起きたエピソードなどに端を発した文章です。しかし、そのまるでなんでもないような日々の中に、きらめくような美しさが散りばめられており、その1つ1つから仏道に通じる「こころ」の在り方や、彼女なりの気づきが優しく語られています。
(1つ劇的なことと言えば「夢の桜」の章で、彼女の叔母が昭和60年の日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者の一人であったという事実が書かれていたことです。奇しくも私がその章を読んだのは2024年の1月2日の夕方でした。その事実に少なからずショックを感じ、思わずネットで当時の事故の概要を調べて思いを馳せていた数時間後、テレビをつけたら日航機と海保機の衝突事故の映像が流れてきました。偶然と言ってしまえばそれまでですが、あまりのタイミングに機ろしくなりました。)
また後半の「ほとけの道をゆく」でも、何か教訓めいたことを上から下に向って言うようなものではなく、彼女自身の仏道に精進する等身大の言葉が綴られています。私自身、冒頭で石山寺を『源氏物語』ゆかりの場所というキャッチーな文句をつけて紹介してしまい、大河ドラマの(良くも悪くも)影響もあって、その側面がさらに強調されていくであろう石山寺。ですが、その座主として伝えたい思いというのは、石山寺の信仰、その霊験あらたかさ、歴々の僧正や座主の守り伝えていく信念、それを頼りに参拝に訪れた人々の思い、その人間の営みと歴史なのだと感じました。
茶道と仏道
「茶道と仏道」だなんて大それたタイトルをつけていますが、私自身が茶道も仏道も語れるほどの知識も経験もありません。ただ、連載が開始された当初、実は「なぜ茶道雑誌の『淡交』で石山寺なのか?」という疑問もありました。『淡交』の編集者が同じ学部の同級生という縁もあったという事情を知っていたので「経緯」は分かっていても、その連載の「意義」を分かっていませんでしたが、今回本書で一気に読んで、その答えが分かりました。
本書の「ほとけに成る」の章では、「仏(=仏陀)」とは本来「真理に目覚めた人」という意味で、つまり「仏」はどこか超越的な存在としてどこかにある(いる)存在ではなく、自らが「成る」ものなのだということです。
そして、ここからが私が本書を読んで感じたことですが、その「ほとけに成る」ための手段の1つが、自然を慈しみ、今ここにあることに感謝する敬謙さをもつことであり、それは茶道をする上での心構えに似ているということです。
私が通う茶道の稽古場の旧柳澤邸には、見事な庭があり、様々な花々が季節の移ろいを教えてくれます。しかし日々の効率の良さを追求し最短経路で結果を求めるマインドの私は、「稽古稽古!」とまっしぐらに玄関を開けて茶室に入り、先生に「今日はお庭の○○がきれいだったよね~」などと言われて、「見てない…」とハッとさせられることが多々ありました。茶室に入ってからが「茶道」と思っているうちの私はまだまだだなと反省したものです。
その周囲の環境、自然に眼差しを向けること、その眼差しの向け方が、鷲尾さんの文章から感じるそれと、茶道をするうえで心がけていることが通じているなと感じ、『淡交』で連載するということの意義はこういうことだったのかと納得しました。
もちろん茶道も仏道も本格的に追求するならそれだけではない、膨大な知識や経験の習得が必要ですが、それらは肉付けのようなものなのではないでしょうか。それらの肉付けが上手いことつくためにはしっかりとした芯がなければならず、その芯となるものこそ「自然、他者への慈しみ」といった「こころ」の在り方なのだと感じました。
この本を通して、私の中の”茶道”も少しクリアになったというか、心を引き締めなければと思いました。茶道と仏道、歩む道は違えど、歩む方向は同じなような気がして、心強く感じました。
大河ドラマ『光る君へ』の放送開始で『源氏物語』も再注目され、読んでみようかな思っている方も多いと思いますが、さらに、その起筆の場とされる石山寺の美しさと、鷲尾さんの綴るしなやかな文章で心を濯ぐ時間を持ってみてはいかがでしょうか。
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